恋は雨上がりの小松菜奈

ブログを再開したものの、何日かしたら書くこともなくなって、日常的に何かを書く習慣もないのだからそのままフェイドアウトする。という、いかにもありがちな撤退を繰り返した後、それでもまた始めてしまったのは、一つには、生活していたら何かしら書いてみたい事柄の一つや二つは出てくるのだし、今回は『 恋は雨上がりのように』を劇場で見てきて、それについて書きたくなったのもあるけれども、どちらかといえば、何だかんだフンパツして購入したiPadなら布団から出ないでも、体勢を直せば(今は枕を脇に入れるようにして肘をついている)自堕落を継続したまま文章を書くことも可能だと気づいたからだ。

ふむ。

恋は雨上がりのように』はネットの評判で聞いていたように、小松菜奈のための映画だった。可愛いよね。小松菜奈
以下当然のようにネタバレだってあるので注意されたし。

オープニングで、怪物と戦うヒーローのように画面に滑り込んできてから走り出す小松菜奈を見て、それからずっと、映画の終わりまで小松菜奈を見続けることになる。
そもそも、あの年齢の若手俳優を主役に据えた映画というのは、そういうもので、今まさに全盛期だったり、あるいはこれから全盛期を(事務所やら業界とやらで)作り上げようとしている真っ最中の俳優を見る為にある。多くの場合は演技を見るというよりは、「あの話題の!」人を、ファンや漠然とした興味を持った人達が、「その類稀な美貌!」を眺めに行くといった風情なので、小松菜奈以外に見る部分がほとんどないというのは当然といえば当然ではある。
しかし、最近の日本映画で、まして漫画原作なので、全体的に、テレビ局が作った映画風の妙な平べったさや、漫画に見るステレオタイプの演出が頻出し、否が応でも小松菜奈以外を見ることを許さない。のは、果たして演出意図と呼んでいいのだろうか?
幼馴染の清野菜名が、せっかく夜祭で小松菜奈と一緒に楽しんでいたのに、(言いはしないが、小松菜奈にとっては祭りに来た理由の一つである)大泉洋を見つけて、小走りでそちらに行ってしまい、それに嫉妬して、結果、普段言えないが募っていた不安や苛立ちを怒りとともにぶちまけるシーンは、清野菜名にとっては見せ場のはずで、画面の中心に捉えたまま、それなりに長い尺で「はい、場所は用意しました見せ場お願いします!」状態なのだが、その演技が、昭和感溢れるタイプの熱演で、映画全体の薄さに加えて、演技よりも存在感で画面を作る小松菜奈とのギャップで、スゴイ。
スゴイ。
清野菜名はこのシーンに限らず、映画中基本的に女子高校生というよりは親戚の面倒見のいい叔母さん(それも時空を超えてきた昭和の叔母さん)風演技なのだが、小松菜奈とのギャップで主役を引き立てようということなら、演出意図というものだが、実際どうなのだろう?演技指導とか入ったんだろうか?

映画中、小松菜奈はほとんど強い癖を見せない。主人公の「あきら」の性格もあるのだろうが、小松菜奈の存在感の質の問題の気がする。フラットな状態で役に入り、役の行動を行なっていく。そこには「あきら」というよりは小松菜奈がいる。私が思うこの映画の1番可愛らしい小松菜奈は、ほとんどオフショット気味に大泉洋と談笑しているところなのだ。小松菜奈が好きな人はきっと、バンド「ネバーヤングビーチ」の「お別れの歌」のPVの映像を思い出したんのではないだろうか?あの映像の小松菜奈もほとんど演技を感じさせない、まるで女性の友人とふざけあっているオフショットのように見えるのだ(曲の設定からしてすでに別れた恋人が撮っていた映像なのだが、そして男の脚すら映っているのだが、女性の友人とふざけあっているように見える。もちろんだからこそ別れることになったのだという考察も可能ではある)。そして恐ろしく魅力的なのだ。
そういう彼女の演技を見ていると、今は若く美しく、画面に映るだけで目がいくような存在感も、あるいはキムタク化するのではないかという不安も湧かないでもない。どんな役を演じるも全部コスプレをしたキムタクに見えるというアレである。検察官をやっても、宇宙船ヤマトの乗組員をやっても、はてはピンク色のトイプードルをやっても全部キムタクというのは一種の才能で、凄いことであるのは事実だが、全く好きではない。小松菜奈もそうなるような予感は少しある。超自然なオフショット風と本編の薄い演技を補う存在感によって。それは恐らく別のものではなく、似たような所から(あるいは同じ所から)自然的に滲み出ているのだ。今はまだそれは魅力的に、それもとても魅力的に見えるが、何度も何度も違う役から同じような出力で出ていたら、それでも美しいと思えるかはわからない。

全体的に否定的に見えるようなことばかり書いてしまったが、素敵だなというシーンもあった。短くいくつか。
小松菜奈大泉洋に車で送ってもらう途中で、大声で「店長のこと好き」というのだが、本当に大声なのだ。怒鳴っているわけでもなく、感情の強さにリンクしてただ大声なのだ。その後の事故りそう!危ない!キキー!は、そういうのは入れなくていいと思うけれど、その大きな声はとても良い。
小松菜奈が母親に怒鳴る(こっちは怒鳴る)シーンも良かった。シーンとしては怒鳴るのだけど、音声としては上のシーンに近い。強いけれど汚くない、ただの大声に近い声。良かった。案外声が良い女優なのかも。
大泉洋が家で養生している所に小松菜奈が押しかけてきて、穏便に断わり続けているのになおも押してくる小松菜奈に、困惑、とうよりは半ば苛立った風に「君に俺のなぁにが分かるの」と言うのだが、それは大泉洋が映画でよくやる、チームナック風とでもいえば良いのか、演技が求められる時の少し鼻にかかった声ではなく(当然この映画でもそれはいっぱいあった)、もうほとんど水曜どうでしょう風に嘆くのだ。まるで旅先にてミニバンの中でもめているように見えてしまう。映画館で映画を見てたはずなのに!でもそれは全然悪くなくて、むしろ気持ちが分かるといった素朴な共感をしてしまう。
映画は冒頭から小松菜奈中心に進むのだが、途中、大泉洋に話は寄り、大泉洋のやもめの部屋を映す。大量の本。書こうしている原稿用紙。店長という人物の背景を映そうとするのだが(案外語られる内容は薄く、結局映せていないと思うのだが、それはそうと)、その撮り方、というのか繋ぎ方というのか、ただの青春テレビ映画以上のものになるかもしれないというような所があったと思う。人物を映そうという意欲はあったと思う。とまで書いてどんだけ私は偉そうなのか。
なんだか急に恥ずかしくなったのでここまでにします。

久しぶりというのもあって妙長くなってしまった。
結局小松菜奈可愛いよね。これにつきます。これはまたすぐ書かなくなるなという予感とともにさらば。