愛のチクワ天

チクワの天ぷらが好きだ。と改めて思う。

駅そばを食べるような時は大体チクワ天そばを頼むし(今日の仕事帰りも食べたのです)、居酒屋でチクワ天に七味マヨネーズが付いてるようなのがあれば、まあ、頼んでしまう。

カリッと揚げた香ばしいやつに天つゆだの塩だのというのも好きだし、スーパーのお惣菜のようなふにゃけたやつに、お醤油を垂らしただけというのも独特の味わいがある。

ほとんどチクワの味がしないくらい熱々のやつをつつくのもいいし、チクワの味がしっかりしたものなら、冷めた頃合いがまた美味い。正直な所、味のしっかりとしたものでなくとも喜んで食べる。ギブミー、チク天。

本格派も、その場の食欲を満たすごまかし的な食べ方もいける。愛らしいやつよ。チクワ天。

 

家で天ぷらを揚げることはまずないので、チクワ天を食べる時は、外食か惣菜と決まってるのだけれど、時々困るのが、チクワ天を頼んだのに、磯辺揚げが出てくる時だ。

いや、あなたはこう思うかもしれない。

どうでもいい。

そうかもしれない。でもそうでもないかもしれない。

私の中ではチクワ天が求める状況と、磯辺揚げを求める状況は結構違うのだ。

まず、私はツユに浸ったチクワ天が好きだ。だが、磯辺揚げをツユにつける習慣はない。磯辺揚げを食べるなら、海苔の香りを感じたいし、であるなら、塩や、せいぜいマヨネーズで食べたいのだ。

だのにだ、ソバのトッピングに頼んだチクワ天がチクワ天ではなく、衣に綺麗な薄緑の模様が刻まれている事があるのだ。待ちたまえ。私はチクワ天が食べたいのだ。ギブミー、チクワ天。

あるいはちょっとした香りの変化でグレードアップしたような錯覚を起こさせたいのかもしれないが、それは違う食べ物なのだ。

いや、勘違いしないでほしい。何も私は磯辺揚げを否定したいのではないのだ。私も磯辺揚げは好きだ。チクワ天より前に出逢っていたら、一心不乱に口説いたかもしれない。その魅力は疑うべくもない。けれど今はもうダメだ。私の頭にはチクワ天の可愛らしい笑顔が浮かんでいて、それをなかった事になどできはしないのだ。

 

なんで違う食べ物を出してくんのよ。

もちろん磯辺揚げも美味しいし、喜んで食べますよ。磯辺揚げは揚げたてがいいな。でもあんまり冷えたやつは食べたくない。何故かはよくわからないが、チクワ天ならしみったれた状態のそれも味わいとして受け入れることができるが、磯辺揚げはふにゃふにゃでしかも冷えてると、何だか悲しみに似た硬い感情が心の底にあるのを感じてしまう。

磯辺揚げにはいつまでも美しく魅力的であって欲しい。華やいだ気持ちがもうそこに起こらないのなら、たぶんもう会わない方がいい。我慢して思い出を汚していくぐらいなら、その思い出を胸に別々の道を行ったほうがいい。

文章にして気づいたが、これはいささか私の頭がおかしいのかもしれない。

だが嘘はない。基本的には。

 

あー、何というか、今日はチクワ天入りのソバが食べたかったんですけどねー。