メゾン・ド・ヒミコを見た。

「メゾンドヒミコ」を見たのだが、その感想をば。

 

まず、考えていたよりずっと良い映画だった。

最近映画館やプライムで邦画を何本か見たのだが、邦画も全然悪くないなあ。と思い始めた。もちろんそういうからには、もともと私には、邦画はダメとか、ウンコが多いとか、そういう偏見があったのだ。

でも歳のせいかなんなのか。そんなことないなと思い始めた。

最近見たところでは、「カメラを止めるな」は最高だったし、「サニー~強い気持ち強い愛~」もどうなのという所は多々あったけど全体としては良かった。少なくとも見て良かったとは思った。

で「メゾンドヒミコ」なのだが、なかなか芯のあるいい映画だと思った。

私の性格上、気になる所、どうなのという所も書いちゃうのだけど、それはそれ。素晴らしいと思えるものだった。同じ監督の「ジョゼ虎」は学生の頃(何年前だ。つまりは恐ろしく昔)見て、ケッ!と思った記憶があるのだけど、これも今見たら感想がガラリと変わるのかもしれない。まあ、わからないけれども。

 

いくつかの急所となるような場面は本当に良かった。

例えば、死の淵にいる寝たきりのゲイの父親ヒミコの鼻から血が流れてるのに気づき、拭いてやる柴咲コウ。目を覚ましたヒミコと会話をするのだが、そのシーン。

会話自体も素晴らしいが会話の最後、ヒミコが「(それでも)あなたのこと好きよ」と言うと、柴咲コウは、何を言われたか分からないと言った風に、動きを止めたまま言葉が自分に浸透するのを待ち、それから嬉しさや憤りや戸惑いが浮き上がり、少しだけ背筋を伸ばし、感情が混い濁したまま、いくらか涙声で「なんなのよ、それ」と言う。

この、少しだけ伸ばされた背筋がとても良かった。

母親と共に捨てられたと思っていたが、いや、それは事実だが、母親とヒミコはその後も仲良くしていて(おそらく母親は、その後もヒミコを愛して、ないしは好きなままだったのだ。取り戻すことはできないにしても)だがそれを持って許せるわけもない。だが死の影を濃くするゲイの父親が「あなたのこと、好きよ」と承認の言葉を吐く。感情は混ざりあって浮かび上がり、戸惑い、少しだけ背筋を伸ばし、それから「なんなのよ、それ」と言う。

このほんの少し直した姿勢に、いろんなものを見る事が出来るだろう。素晴らしいシーンだと思う。

 

とはいえ、映画の始まりからこういうシーンがあることは決定付けられていたシーンではあり、人によっては、あーはいはい。となるかもしれない。私も少しはなるのだが、だが一方で、この人物達、この状況が希求しているセリフ、立ち位置はズレることなく守られる。これはこのシーンに限った話ではないのだが、状況が希求する到着点を容赦なく描くのだ。ゲイを必要以上に美しく撮ろうという意思はない。ゲイという生物的にねじれた存在。自分に正直に生きようとすると子供もなくそこで断絶する存在(今は代理出産など、本当に臨めばなんとかなると思うけどね。)。だがそれを持って子供に対する愛がないことを意味しないという事。そういう、何ともならない事を、何ともならないままに映画は受けれていく。

奇跡的な解決はない。

いくつかのセリフは本当に容赦なく、厳しい。でもそれがいいと思う。

この物語は本質的にはゲイである必要はない所でやっていて、ゲイの対する偏見を糾弾するわけでもなく、ゲイであることの素晴らしさを歌うわけでもなく、社会的なアプローチではなく、存在としてのゲイ、あるいはゲイという存在の在り方を物語の機能として見ている。それがいく所はいくといったような容赦なさに繋がっていて、むしろゲイをキチンと撮れている。と私は思う。ゲイ文化的にリアルかは知らないので分からないですけど。

 

良いシーンも多かった。

オダギリジョー柴咲コウがセックス出来なかった所も良かったし(触りたいとこ。ないんでしょ)、

ルビーさんを息子に引き取って貰った後の、辛いやり取りも良かった。

すでにちょっと書いたけど上の柴咲コウと父親のやり取りは、その前のくだりから良かった。

基本的にセリフ周りが良かったと思う。脚本が良いという事だろう。

 

一方でどうかなと思ったのが、

たとえばディスコ(だか潰れたキャバレーを居抜きで作ったダンスホールだか)のダンスシーン。

あるいはディスコやハウスミュージックの祖としてのゲイカルチャーに目配せしながら、身体と汗と動きというセックスの予感、物語が大きく動く予兆、そういう機能を求めてたのかもしれないが、あれはどうだろう?頭ではそういう機能を考える事はできるけど、機能してなかったのではなかろうか。

割に唐突だし、何よりダンスシーンが官能的でなく、安いMVみたいな正面からの撮影は、それまでのシーンの美しさからの落差でガッカリする。

またダンスホールに繋がる衣装遊びは、繊細さと官能のないソフィア・コッポラという感じ。あの前後はちょっとどうした?という感じがある。

 

主演の柴咲コウの演技は、上に書いた素晴らしいシーンもある一方で、割と(好みの問題なのかもしれないが)嫌なものが多く、演技のニュアンスでコミカルにするようなシーンでは総じて子供じみていて、映画に合ってないようにすら感じた。あるいはコミカルでない所も、柴咲コウの演技のせいでコミカルなニュアンスを与えられてしまった可能性もなくはない。でもセックス周りは良かったと思う。

 

あと、ゲイに対する差別のシーンは今の感覚からすると、いささかわざとらしすぎるというか、一昔前の漫画的ステレオタイプに見えてしまう。実際に一昔前の(あるいはふた昔前の)映画なのだから批判するに当たらないのではとも思うが、何だか浅はかな印象を受けてしまう。13年前にゲイの周辺環境がどうだったかを本当に知らないので、あのくらいのことは当然あったと言われれば、そうなのかとしか言えないけど。

でもそこからエピソードを綺麗に繋いでいく脚本の上手さは素敵で、よくできてるなと思った。

 

あと、あまりテーマ主義の映画というのも好みじゃないのでそんなに気にならなかったが、視点というかテーマのラインがいくつかあって、あまり腑分けせずに、半ば混ざったまま視聴者の前にドスンと置いていく所があって、気になる人は気になるかもしれない。

エピソードとエピソードの関係が視点(テーマ)ではなく、時節と雰囲気(あるいはカタルシス)で着陸すること。

でも解決できないテーマなら拾って置いておくしかないというのもわかる気がする。そういう扱い方も、ゲイという最終的には断絶的な存在(あるいは生物的にストレートではないものの、そのように存在しているという事実)には正しいのかもしれない。

 

批判的な事を書いてるほうが筆が乗るという嫌な性格をしているので、批判の方がやたら長くなってしまったが、良い映画だと思う。昔見て、ケッ!となってしまった「ジョゼ虎」も機会があればもう一度見たいなあと思うくらい。