イチロウ イン ザ スカイ with コニカミノルタ

イチロウ イン ザ スカイ with コニカミノルタ

 

プラネタリウムを見るために、わざわざ電車に乗って、押上はスカイツリーまで行ったのだった。ドナドナ。 

連れがサカナクションが好きで、今スカイツリーの「天空」というプラネタリウムでコラボやってるから見たいというので、半強制気味に、ついて行くことになって、見てきたのだけど、感想としては、アート風を吹かせただけのどうしようもないクソ(時々そういう人間もいますね!)と断じたい気持ちが9割だったが、幾ばくかの可能性も感じたのではあった。 

あるいは、私は、人でゴミゴミとした都市というのが嫌いなので、始まる前から否定的な係数がかかっているかもしれない。少なくともそう言われても否定はできない。 

休日のスカイツリーカップルや家族連れで溢れ、何が楽しいのか、どいつもこいつも精一杯のおしゃれ(秋のアーバンスタイルは、抜け感重視で軽やかさをプラス。トラッドなヴィンテージ小物で大人キュートを演出!だか何だか)でニヤニヤ顔で歩き腐り、似たようなセレクトショップやらブランドやらカフェやらを埋め尽くす様は、都市に馴染んでいる自分に陶酔する宗教者の群れ(スパゲティモンスター的な実態のない神さまに恥ずかしくない信心深さ!)に見える、というのは、もちろん、群れから弾かれたように感じる私の劣等感の裏返しなのは確かだとしても、うんざりする。みんな家帰って寝よ?

しかし半強制でやってきた私は帰る訳にも行かず、疲れやイライラで、連れといくらかギスりながらも、スカイツリー7階天空までたどり着いたのだった。 

 

暗い室内で、リクライニングを倒すと半球体の天井スクリーンは視界よりももっと広く、流れる映像を追うためには、顔を傾けることになり、私はVR(ヴァーチャルリアリティのVRです)に類似した臨場感があると感じた。

映し出されるイメージ群。

遠くに眺める星座。

そして海に沈んでいくこと。

それから、夜の都市。その高い建物の先端を見ようと、私は首を伸ばした。

そして星座の、骨のような連なりをくぐり抜けること。

常にサカナクションの音楽が流れている。

やがて骨の連なりは集合し、星になる。あるいはそれは地球かもしれない。

 

そこに流れてるイメージ群は、何か言いたげで、音楽のおかげで感傷的な感触をまとい、私は(我々は)その中にいる。物理的に。その埋没感。

でも端的に言って、それらはどれも意味などないのだ。

 

それは何かの表現のふりをした、雰囲気の、空間の、虚しい張りぼてで、何か意味があるふりをしているだけなのだ。

サカナクションの山口一郎のナレーションも、明らかに彼の言葉ではなく、台本を渡されて読んでいるだけだ。コラボレーションとは名ばかりの、名前貸し、曲貸し、声貸しでしかなく、虚しくなるばかりだ。 

もし、自分の作品として関わったなら、イチロウヤマグチはあんなに音響が(おそらく箱よりスピーカー自体が)悪いのに、それでもOKを出したとは思えない。音の解像度がやたら低く、常にぼやけていた。楽曲に後付けでリバーブかけたとかではない。きっとイチロウヤマグチが見に行ってたら、スピーカーの増設を提案したんじゃなかろうか?最悪でも音響のエンジニアを連れて行っただろう。

 

あるいは私の目が悪いのか(実際視力はあまり高くないのだが)、投写という形式の限界なのか、音だけでなく映像も解像度が低いように感じた。しかしこのプラネタリウム「天空」は、あのコニカミノルタが運営しているので、そんなことってあるんだろうか?これに関しては私の視力が原因かもしれない。

 

あるいは、意地悪く考えれば、それら中身のない張りぼてと、スカイツリーという面白くもないアーバン高所の親和性は高く、そういう意味でなら、つまり、スカイツリーの批評としてあの映像を作ったのだ、と読み取るのも可能かもしれない。

  

でも、そうだとしても、そこには映像に包まれる喜びというものはあった。方法としては可能性がまだまだあるのだと思った。

パラレルな感想。映像の方法としては面白さは感じながらも、その中身はクソなのだ。

あるいは世界のどこかにはあるのかもしれないが、プラネタリウム型の天井スクリーンを前提とした映像作品は、きっと面白いものになるはずなのだと思った。

 

「天空」の映像は、好意的に見れば、専門学校を卒業して3年、現場でテクニックは覚えたものの、表現の主体として映像を作ることもなく、機会も与えられず、でもいつかはと思うものの、「天空」with コニカミノルタの雰囲気(そこには当然スカイツリーという場所柄だって関係してるはずだ)を外れないというディレクションの中で、頑張ったり、虚しくなったりしながら、ある日、好きなミュージシャンであるところのサカナクションとのコラボレーションの企画が舞い込み、揺り動かされ、与えられたポジションの限界を感じながらも、せめてものものとしてCGデザイナーが作った、脱色された表現欲求のようなものに見える。

言うまでもないが比喩として。

でもダメはダメだし、クソはクソだ。

 

私と連れはプラネタリウムを出た後、帰り道、散々悪態をつき、途中ビアードパパでシュークリームを買って帰った。紅茶を入れて食べた。美味しかった。