「過去の映画の記憶(過去)」を10年先から眺める事

最近、とある個人ブログを覗いているのである。

 

情報の断片を集めると、書いているのはおそらく50過ぎの男性だ。

サッカーが好きで、代表戦や、セリエAの試合などの話題が度々ある。だが不思議とチャンピオンズリーグの話はない。頑固な職人みたいな強いこだわりがあるのかもしれない。リーグ戦がサッカーの本質だ!みたいなね。日本戦は別腹。

日常の生活の話題は少ないが、稀に写真と共に、短いおまけのような文章が乗ることもある。雨が降ったとか、電車が遅れたとか、その程度だ。

そしてそれ以外の、およそ8割9割を占めるのが映画についてのエントリーだ。ほとんど映画ブログといっていいだろう。

映画に関しては、果たして好きという言葉を当てはめるのが正しいのかよく分からない。側からみると、それはなんだか信仰のようなものに見える。

その信仰は学生の頃に始まったようで、青年期を経て、中年期を超え、初老に達しようかというのにまだ続いている。敬虔な信者として、毎週末、あるいはもっと頻繁に映画館のミサに出席している。

そして、その日見た映画についてのエントリーを書き上げる。

私はその映画のエントリーを過去からほじくり返して読んでいるのだ。

過去から、というのは、それはもう既に停止したブログだからだ。なんだか廃墟に忍びこんで、生活の跡を眺めているような気持ちがする。

ブログは2000年代の頭に始まり、週に2、3回のエントリーを続け、2010年の冬に電池が切れたみたいにぱったりと更新を辞めている。

 

彼の映画について書いた文章が好きだ。

一番の美点は評論しないことだ。彼がやっていることは、彼が今まで見てきた映画の知識と、その日見てきた映画を繋ぎ、見えた事柄ついて書くだけなのだ。よほど気に入った時には「傑作」だの「観るべき」といった言葉も出てしまうが、基本的には映画を断じない。この監督を貫くテーマは何とかで、だからこの映画もーとか書いたりしない。これは社会情勢を象徴していて、だから登場人物のこの行動はーとか書かない。せいぜいが、「もし、これが社会の気分を反映しているなら」とか、そんなところだ。奥ゆかしいのだ。ましてや身勝手に点数を付けるなんてまずない。

自分に見えたスクリーンの光景を文章に変えていくだけなのだ。

文章は視覚的で感覚的だ。それに上手い。上手いのにプロっぽさがないのは、フォーマットを気にせず書きたいように書いていて、しかも無理に結論づけないからだろう。2、3行短い気持ちだけの感想を書いて終わってしまうこともある。あまり読み手を意識しているように見えない。川沿いで歌の練習でもしているみたいに、好きなだけ歌って満足したらギターケースを担いでさっさと帰ってしまう。

でも聴かせるのだ。

 

過去の映画の記憶と、昨日今日見たスクリーンの光が重なる。フィルムを重ねるみたいに。その美しさ、甘美さ、重さ。追体験というほどのことではないにしろ、読んでいてその幸せを少し感じるのだ。

大量に見てきた映画の記憶が、今見ている映画を彩ること。

読んでいると、私もそんなものが書いてみたくなってしまう。でもそれは無理だ。私は映画の何者でも無いからだ。半可通にすらなれない。いや、半可通…にはなれるか。

なんにしろ無理だ。

だから遠巻きに、10年も先から眺めるだけなのだ。

 

 

彼の文章を読むのは楽しいのだが、過去の映画の感想をひたすらに掘り返しているのには別に理由があって、それは、 今アマゾンのプライムビデオで無料公開している映画と被っているものがいくつもあるからなのだ。

ちょうど無料公開するのに適したタイムラグなのかもしれない。

そして私はプライムで過去の映画を見て、その当時リアルタイムで劇場で見た感想を読む。

これが最近の楽しみなのだ。

最近気づいたのだが、私は評論というものにあまり興味を持てない。私が興味があるのは、感想、気持ち、そういったものだ。泡みたいに浮かんで消えるそれが、出来れば綺麗な色や形をしていたら嬉しい。見ていて楽しい。それだけなのだ。

 

すでに止まってしまったブログを読むのは少し物悲しいところがある。そのブログを気に入ってしまったら尚更だ。変化するものは自動更新の広告だけ。でも、遺跡じゃないのだから、きっとまだ本人は生きているだろう。もし会うことがあれば聞いてみたいような気もする。「あんな素敵なブログを書く気持ちはどんなものでしたか?」とか「そこにあった熱はどこに行ったのですか?」とか。