fire watchと空白のプレイ時間
fire watchをプレイしてて最も感銘を受けたのは、最初の1時間だ。
病気になってしまった妻を見捨て、その逃避として、一夏の間、森を見つめる仕事をする。その選択を背負うことから、ゲームプレイは始まる。
冒頭は文章によるあらすじと選択、そして現在の時制の短いプレイアブルな移動、そしてまた文章による選択。そしてプレイヤーは妻を見捨てることになる。
妻を見捨てるまでの選択肢に大した意味はなく、それは背負わせる為のギミックに過ぎない。でも、ギミックに過ぎないからなんだというのか?選択はそこにあり、逃れる事のできない結末として罪は(あるいは罪悪感は)プレイヤーの記憶に残る。
fire watch
乾いた夏季の森で、火災の発生を見張るのが仕事なのだ。
トゥーンの処理が行われた森は美しい。プレイヤーは隣の区域のウォッチャーのデリラとトランシーバーでやり取りをしながら、移動して、何かを見て、また移動する。ウォーキングシュミレーターというらしいのだが、移動して、何かを見て、また移動するゲームなのだ。
firewatchで感銘を受けたのは移動している時だ。それも出来事が終わった後の帰り道だ。
時に、日常を埋め尽くす仕事に救われるように、プレイヤーも何かに遭遇している間、一時的にせよ、見捨てた妻の事を忘れている。それが、殆ど空白のプレイ時間と言っていいような、特に意味のない、帰り道を歩いている時にフラッシュバックして来るのだ。あの選択は正しかったのか?と。こんなことをしている場合ではないのではないか?と。そのチラつく現実の感触がやたらリアルで、鮮明で、私は何というか、落ち着かない気持ちになった。主人公のヘンリーの気持ちが、喪失感や、絶望感や、感情的な空白がありありとわかるような気がした。ゲームでこういう事って正直経験した事がない。にわかゲーマーである私が知らないだけで、ずっと前からこのレベルだったのかもしれないけれども。
こういう仕掛けはとてもプレイヤーに依存している。その空白のプレイ時間の間に何を感じるかはプレイヤーによってだいぶ違うだろうし(意図された空白なのは間違いないのではあるが)、それによって評価も変わってしまうだろう。しかも、こういった場合、低く評した事が間違っているとも言えない。
そういう受け手に任せる部分、読み取る部分というのは文学などにおいては当然のものではあるのだが、ゲームもそういう所まで来たのだなと思ったのだ。これはインディーゲームだから冒険できるとかいうことではないと思う。
レイモンド・カーヴァーの小説のような感触だなと思った。疲れた労働者の文学。乾いたアメリカの文学。
というのが前半で、後半はサスペンス的なツイストが始まる。謎の組織?盗聴?怪しげなフェンス、施設!
物語は急転し、気味の悪い方向へ向かう。嫌な予感が背中に張り付いてくる。
でも、最初に感じたような、ゲームによって何かを物語ることの可能性はすっかり消えてしまう(とはいえ、とても引き込まれはしたのだが)。ヘンリーの空白はサスペンスに埋められてしまう。
レイモンド・カーヴァーの短編の中で最も優れている(と私が考える)もののいくつかは、その核心となる部分で、奇跡を思わすような、魂の邂逅とでも呼びたいような、でも我々の延長にあるような、そんな瞬間がやってくるのだ。
fire watchは、ゲームもいずれはそんな風に物語ことも可能ではないかと思わせるところがあった。firewatch自身にはまだなかったけれども。それでも。
クリアから何日か経ったが、未だにあの森で開け放したままの収納箱が気になっている。ヘンリー君は収納箱に付いていたダイアルの鍵を開けた後、鍵を地面に落としてそのままにするのだ。気になる。
同じデベロッパーのgone homeも買ってしまった。近いうちにやるつもり。