意地の悪い親戚によるgone home感想(fire watchとの時制の違いについて)

恐ろしいことに、私はgone homeというゲームを勘違いしていた。

 

何を勘違いしていたかというと、開発元を間違えていた。てっきりfire watchデベロッパーの前作だと思い込んでいて(前回の記事にもそう書いてしまった)、この文章を書き始める直前までfire watchとの比較で話を進めるつもりでいた。でも、文章を書く前に調べたら……参ったね。

内容も決まってたのに。これでは辻褄が合わない。

どうしよう。

感想文なんて書かなきゃいいじゃないか?シンプルな事実。

でも書く。

書きたいことがないわけでもないから。

それはおそらく、全体としてfire watchの方が面白かったというような内容になるので、gone homeが大好きプレイヤーは読まない方がいいと思う。性格の悪い親戚みたいに無神経に分かったような事を言い出すこと必定なので。

さて、言い訳が終わった所でネタバレ込みでやっていこうか。

 

gone home

外では冷たい夜の雨がふりしきり、時折の雷が窓から光を刺している。暗がりの中で、プレイヤーは古い洋館を歩き回ることになる。一人で。

その館は周囲の住民達からは「気狂い屋敷」と呼ばれている。屋内を見て回るとあなたは交霊の儀式の跡を見つけることになるだろう。だが館にはすでに誰もいない。

地下へ降りると、今は使われていない使用人の部屋がある。古い時代の痕跡。そこでは何かの事件があったはずだ。

などと書くと、ホラーゲームかな?と思うが、実際にはそんな事はない。プレイヤーは長期の旅行から帰った長女で、旅行中に家族が父親の生家に引っ越してしまったのだ。旅行を終え、引っ越し先に着くと誰もいない。引っ越しの後の残骸。開け途中のダンボール。

長期の旅行のうちに家族のあり方は少しずつ変わってしまったようで、彼女は家の中を見て回り、そこで何があったのかを調べていく。怖いゲームではない。

とはいえ、上に書いたホラー的な描写は全部がジョークということでもなく、お話へ導く雰囲気作りとしてホラーな感触が用意されている。でも色の薄いカラーフィルターみたいにホラー風に見せているだけであり、ストーリーラインは現実的な範囲を離れない。

 

メインとなるストーリーは妹のサマンサ(サム)の恋物語だ。彼女はヤンチャな感じの同性の友人と恋に落ちて、えーと、試練があり、えーと、逃避行する。それだけ。文章にするとこれだけのことだが、それをいくつもの紙類や音楽テープ、それにサムの日記(これは肉声で再生される)などのインタラクトで現実感を膨らませていく。特に手紙はいい味を出している(見るためには日本語文字を消さなくてはいけなくて面倒くさいが)。

様々な手紙が家中に散らばっている。

それを拾って読んでいくゲームなのだ。

メインであるサム達の手紙のうちのいくつかはルーズリーフに手書きで書かれ、学生のやりとりをこっそりと覗き見たような気持ちにさせる。個性や感情を、ひいては存在を感じさせる手書き文字。

そのリアリティ(の演出)がこのゲームの根幹で、何というか、それで全部という感じだった。インディーゲームだし、やりたいことがあって、やって、それで全部だ!というのは潔いともいえる。だが、そんなに評価されるほどかね(gone homeはいくつも賞を取っている)。

 

悪い所をグダグダ書くのは今回の主眼ではないので、fire watchとの比較の話。

どちらもウォーキングシュミレータと呼ばれる一人称によるアドベンチャーで、マップ内で何かを見て、また何かを探していく。その中で物語が展開していく。

fire watchとの大きな違いの1つは、プレイヤーである人物に大きな背景があるかどうかだ。

fire watchは冒頭の選択肢によってキャラクターの人生を背負わせようとする。どう選択しても同じような結末(避けられぬ悲劇)になるのだが、選択するという行為によってプレイヤーは多かれ少なかれその悲劇を背負ってしまう。それがウォーキングシュミレータという(リスクとリターンなどの古典的な意味での)ゲーム性が薄い、ただ歩き、見るという行為に、あるいはその空白に、背後から滲み出すようにニュアンスが与えられていく。私はそれがとても機能していたと考えるのだ。そしてプレイヤーはその物語をプレイしていく。背後にある物語が今の物語と関係を持ち、ある種の深みを与えられる。

さて、gone homeだが、こちらはどうかというと、プレイヤーの視点にキャラクター(一家の長女)は与えられているものの、それが大きく反映される事はない。むしろ冒頭のホラー的な感触を強めるためにあえて無色のままにしてあるようですらある。あるいは探索をして物語を読み込んでいくというメカニズムをシンプルに信じているのかもしれない(つまりはストーリーを語るのが主であり、視点との関係は問題としない)。

そしてそれは成功しているのか?

私の考えでは成功していない。端的にいって、探索をして断片的な物語を読み込むというゲームプレイと、妹の逃避行という物語に親和的な物を感じることができない。好意的に見れば、NPCとのインタラクトを持たないことが多いウォーキングシュミレータというジャンルにおいて、既にここにいない妹の物語という部分はシンクロしているかのように見えるが、断片を拾い集めていくというプレイの根幹に必然性を感じられない。何というか、バラバラにされた絵本を拾い集めているような気分だ。設定資料も用意してある。読んでくれたまえ。という感じ。何故拾い集める必要がある?

拾い集める事に意味を見出すのならば、物語の主体をプレイヤーに与えるのは必然ではなかろうか?断片的であるという時制を活かすには、複数の時制を与えるのがシンプルな解決方法だからだ。そしてそれは、プレイヤーに見捨てた妻と美しく怪しい山を与えるという形でfire watchが行なっている事でもある。

だから、fire watchのような形態とgone homeのような形態では、よりウォーキングシュミレータに適しているのはやはり前者なのだと私には思える。

もし後者のやり方で成功しようと考えるならば、その物語自体の質が問われるだろう。(何のためになのかは知らないが)バラバラになった本なのだから、比較対象は小説や映画にもなるだろう。そしてそれに耐えうるものだったかというと、はっきりとNOといえる。にもかかわらず、gone homeはストーリーテリングにおいて国際的に大きな評価を受けている。

これはゲームというメディアの良い点であり、ウンコな点だ。何故なら歴史的に見ればまだハイハイが終わった程度のこの新参メディアは、未だ発展途中もいいところなのだ。現実的な世界の投影を行ったというそれだけで、それが新しい表現であるように感じられるくらい未発達なのだ。

でも悲しいかな、私もその感覚は分かる。

でも幸福な事だ。ゲームというメディアはまだまだやっていない事がたくさんあるのだ。目眩がするくらい。

 

さて、あなたは気づいているかもしれないが、これはアンフェアな比較だ。私も分かっている。fire watchはgone homeよりも3年も後発のゲームなのだ。当然gone home(あるいは近似的なゲーム)を研究して作った可能性は高い。

最初は、なるほどこの欠点を次作でこう補ったのだな、みたいな感じで書こうと思ってたのだけど、へへへ、デベロッパーが違ったんですよ。

となればそれは「takoma 」で行うべきだろうし、それやってねーし。

でも書きたかったんですぅ。

許してくらはい。