電車からこぼれ落ちるおじさん
チャオ。
オッサン少女現る、の回よ。
急だけど、電車通勤しているの。私。
でね、なんかね、実は前から電車の中って居心地悪いなーと感じていたの。居場所がないっていうかね。でも、こないだやっとその理由の1つに気づいたの。日常の気づきis大事。
それは車内広告。
知ってると思うけど、電車って雑誌の中吊りを始めとして、ほーんと広告ばっかなのよね。
扉のガラスにはぺたぺたとシールがはってあるし(学校の広告が多いと思う。ナゾの邪馬台国男性。もしくはナース服のコンビのコメディアン)、
入り口のイスのうしろのガラス(ここはビューティ関係か自己啓発の本ね)、
連結の横の壁(ここも本。柔らかい書籍を貼るならここって感じね。こないだ、ヘルシーお菓子の広告も見たわ)、
入り口の上のモニター(メーリオゥ)。
毎日たくさんの人たちが乗ってくるんだもの広告をうたない手はないわよね。メイクマニー。
広告はターゲットをイメージしないと効果は望めない。
ネットでは履歴から情報を拾いあつめて、その人が欲しくなりそうな広告を貼りつけるのはもはや当然。テレビも見てる人がどんな人かをイメージして、それに合った会社のCMが流れることになるわ(うちにピッタリだ思う会社がCMする時間を買っているのよね)。
きっとこういう年齢と性別なんだろうなとか、こういう生活だろうなとか、だったらこういうものが欲しくなるよね。って、イメージして、こんなのあるのですけどってCMしてる。
でもそこにはね、裏を返せば、こういう年齢だったら、この性別だったら、当然こういう生活を求めているよな?というような思い込みや、もっと意地悪くいうと、そういう生活こそが正しい生活なんだよ。とか、それを求めていて当然といった一方的な価値観の押し付けがあるように感じられるの。少なくとも私には。
被害妄想がすぎるかしら?
電車の中の広告を見ていくと、電車に乗っている人へのメッセージがいろいろあるの。
キレイでいたいでしょ?いい学校に行きたいでしょ?成長しなさい。話題のさきっちょについてきな!ゲスな気持ちを代弁するよ!金かすよ。美しい人生とはこういうものです。ってね。
なんだかね。そのメッセージのほとんどに共感できないの。彼らの提案する真っ当な人生っていうものに共感できない。共感できないと、なんだかね、ああ、このひとたち(メッセージを飛ばすひとたちだけじゃなくて、電車を埋めるひとたちみんな。みーんな)は私と全然違うんだなあと思ってしまう。それだけならまだ良くて、靴に入りこんだ石みたいにみんなの邪魔をしているような気がしてしまうの。
そんな訳はないのにね。
困ってしまうわね。
かってにメッセージを読みとって、かってに傷ついているのだから手に負えないわね。
でも、そんなこんなで通勤中は気分がさえないの。
もちろん仕事したくなくて気分重いのもあるんだけどね。ふふふ。
もしそこに、私にぴったりの広告が貼ってあったら気分はさえるのかしら?社会の一員として受けいれられたような気がして誇らしくなるのかしら?
イメージしてみる。
ある日出勤するために電車にのると、そこに私のための広告があるのに気づく。それはみんなにむけたものでもあるの。マジョリティであることの安心感。真ん中よりちょっとは上なんだっていう自負心。商人からうやうやしく紹介される美しい宝石。広がる鼻の穴。チロチロと燃え始める所有欲。
うーん。
どうかしら?
正直よくわからない。なんか間違えている気がするわね。
きっとみんな電車の中でそんなことは感じないで、まるで空気のように広告やメッセージを吸って吐いている。だから私がその空気は息がつまるといったら、(耳を傾けてくれる変わり者の聖人みたいな人ばかりだと仮定して)みんな困ってしまうんじゃないかしら?
でも、私が感じる疎外感みたいなものは事実で、それが私がかってに感じているだけなのだとしても、それはあるの。
私はいい年だけど、こういう気持ちをどうしたらいいのかまだわからない。差別されてる訳でもなく、ただこぼれ落ちていることの悲しみみたいな感情。
なんか大げさになってしまったわね。
実際にはなんか気分が沈むなぁ、とかそんな程度なの。言葉にするとどうもね。なんか感傷的な文字列になってしまう。困るわね。
でもそれに気づいてしまった今、見えない風に過ごせばいいのか、自覚しているべきなのか、メッセージに合わせた生き方をするべきなのか、腹をたてるべきなのか、わからない。
わからない。
わからないまま終わり。
アディオス。