久しぶりに無罪モラトリアムを聴いて

(以下の文章は少し前に書き出したものの、進まず、そんな折、椎名林檎さんがMステで「正しい街」を演奏したという話を聞き、これ以上遅れたら便乗に見えてしまう。えーい、もういいや出してしまえ。という文章である。ちなみに例の演奏は見てない)

 

懐かしの椎名林檎無罪モラトリアムを聴いたのだ。

 

大学時代、講義と講義の合間は一人きりで音楽を聞いていることが多かった。友人が少なかったから。

当時はiPhoneなどなく、出先で音楽を聞くとなればCD やMD(!)のポータブルプレイヤだった。

都合、カバンに入ってる物をリピートすることになり、ものぐさでカバンの整理もろくにしないからリピートはさらに回数を増し、光ディスクとはいえ擦り切れるんじゃないかという気配だった。

その擦り切れ筆頭が無罪モラトリアムだった。

久しぶりに聴いた時、真っ先に思い出したのは、大学のテラスのベンチや、何号館から出てすぐの段差に腰をかけてた時の硬いケツの感触だった。そこで時間を潰していたのだ。

真っ先に思い出すのがケツの感触というのもなんだか不思議なものだ。

 

何を懐メロと呼ぶかは人によって違うのだろうが、私にとっては、ある種の風景や感触を思い出させるのが懐メロの定義の中核で、それに従えば、無罪モラトリアムは懐メロということになる。

 

ベンチやコンクリートの感触を思い出して、それから、そこから見えていた並木の桜や、石畳を埋める落ち葉を思い出して、そこを歩く騒々しい大学生達を思い出して、それから数少ない友人のことを思い出して、住んでいたアパートのことを思い出して、あの時にはあった色々なものを思い出した。

ありがたいことだと思った。

 

ああだった、こうだったと思い出す一方で、今聴いているその音楽、無罪モラトリアムはあの頃とは違う聴こえ方もしたのだった。

 

ヒステリックなセンシビリティ。恋愛の絶望と渇望の間を行き来する。それが世界の中心であることの痛々しさ、でもそれを喜んでもいる。

そういう女の子の姿にそれなりのリアリティを感じていたはずだったが、久しぶりに聴くと随分少女マンガ的な世界観に感じた。どちらかというと少女マンガの恋愛に憧れている女の子像のように聞こえた。

でも、それがダメだという話ではなくて、それはそれで構わなくて、本題は別なのだ。

何というか、自分の中で分裂した感覚があったのだ。

当時に感じていた感触(それなりのリアリティ)がありありと再生される一方で、そうは聞こえない(少女マンガの世界観だ)のだ。

なんだか変な感じだ。

ケツの感触を思い出す方がまだ分かりやすい。

 

過去の記憶と今の視点は違う。それだけのことじゃないか。普通のことだ。そう思うかもしれないが、本人としてはそう簡単なことでもないと思う。

それはリアリティの問題だからだ。

2つ同居するリアリティのどちらが自分にとって正しいのかわからなくなる。なにせどちらもリアリティがあるからだ。

無罪モラトリアムに関していえば時間の流れが明白で、少女マンガ的と感じるのが現行のものだと判断できる。

でもそれ以外は?

過去のリアリティはどこまで過去なのか。

更新されていないリアリティ。人間は原理的に言えば過去以外のどこにもいない。だが過去に感じた(と思っている)リアリティは本物なのか?

お前が見たと思っている川や橋や河原や、雑木林やそれにまつわる笑い話や、学生飲みのむちゃくちゃで揺れる帰り道の視界の電信柱や、苛立ちをどこまで生々しいものとして感じられていたか?いたと言えるか?

などと考えていると文章もまとまらず、出し遅れてしまうのが世の常。

 

結論などない。そんな事を考えたという話。ちょうどよかったので切ります。終わり。