「過去の映画の記憶(過去)」を10年先から眺める事

最近、とある個人ブログを覗いているのである。

 

情報の断片を集めると、書いているのはおそらく50過ぎの男性だ。

サッカーが好きで、代表戦や、セリエAの試合などの話題が度々ある。だが不思議とチャンピオンズリーグの話はない。頑固な職人みたいな強いこだわりがあるのかもしれない。リーグ戦がサッカーの本質だ!みたいなね。日本戦は別腹。

日常の生活の話題は少ないが、稀に写真と共に、短いおまけのような文章が乗ることもある。雨が降ったとか、電車が遅れたとか、その程度だ。

そしてそれ以外の、およそ8割9割を占めるのが映画についてのエントリーだ。ほとんど映画ブログといっていいだろう。

映画に関しては、果たして好きという言葉を当てはめるのが正しいのかよく分からない。側からみると、それはなんだか信仰のようなものに見える。

その信仰は学生の頃に始まったようで、青年期を経て、中年期を超え、初老に達しようかというのにまだ続いている。敬虔な信者として、毎週末、あるいはもっと頻繁に映画館のミサに出席している。

そして、その日見た映画についてのエントリーを書き上げる。

私はその映画のエントリーを過去からほじくり返して読んでいるのだ。

過去から、というのは、それはもう既に停止したブログだからだ。なんだか廃墟に忍びこんで、生活の跡を眺めているような気持ちがする。

ブログは2000年代の頭に始まり、週に2、3回のエントリーを続け、2010年の冬に電池が切れたみたいにぱったりと更新を辞めている。

 

彼の映画について書いた文章が好きだ。

一番の美点は評論しないことだ。彼がやっていることは、彼が今まで見てきた映画の知識と、その日見てきた映画を繋ぎ、見えた事柄ついて書くだけなのだ。よほど気に入った時には「傑作」だの「観るべき」といった言葉も出てしまうが、基本的には映画を断じない。この監督を貫くテーマは何とかで、だからこの映画もーとか書いたりしない。これは社会情勢を象徴していて、だから登場人物のこの行動はーとか書かない。せいぜいが、「もし、これが社会の気分を反映しているなら」とか、そんなところだ。奥ゆかしいのだ。ましてや身勝手に点数を付けるなんてまずない。

自分に見えたスクリーンの光景を文章に変えていくだけなのだ。

文章は視覚的で感覚的だ。それに上手い。上手いのにプロっぽさがないのは、フォーマットを気にせず書きたいように書いていて、しかも無理に結論づけないからだろう。2、3行短い気持ちだけの感想を書いて終わってしまうこともある。あまり読み手を意識しているように見えない。川沿いで歌の練習でもしているみたいに、好きなだけ歌って満足したらギターケースを担いでさっさと帰ってしまう。

でも聴かせるのだ。

 

過去の映画の記憶と、昨日今日見たスクリーンの光が重なる。フィルムを重ねるみたいに。その美しさ、甘美さ、重さ。追体験というほどのことではないにしろ、読んでいてその幸せを少し感じるのだ。

大量に見てきた映画の記憶が、今見ている映画を彩ること。

読んでいると、私もそんなものが書いてみたくなってしまう。でもそれは無理だ。私は映画の何者でも無いからだ。半可通にすらなれない。いや、半可通…にはなれるか。

なんにしろ無理だ。

だから遠巻きに、10年も先から眺めるだけなのだ。

 

 

彼の文章を読むのは楽しいのだが、過去の映画の感想をひたすらに掘り返しているのには別に理由があって、それは、 今アマゾンのプライムビデオで無料公開している映画と被っているものがいくつもあるからなのだ。

ちょうど無料公開するのに適したタイムラグなのかもしれない。

そして私はプライムで過去の映画を見て、その当時リアルタイムで劇場で見た感想を読む。

これが最近の楽しみなのだ。

最近気づいたのだが、私は評論というものにあまり興味を持てない。私が興味があるのは、感想、気持ち、そういったものだ。泡みたいに浮かんで消えるそれが、出来れば綺麗な色や形をしていたら嬉しい。見ていて楽しい。それだけなのだ。

 

すでに止まってしまったブログを読むのは少し物悲しいところがある。そのブログを気に入ってしまったら尚更だ。変化するものは自動更新の広告だけ。でも、遺跡じゃないのだから、きっとまだ本人は生きているだろう。もし会うことがあれば聞いてみたいような気もする。「あんな素敵なブログを書く気持ちはどんなものでしたか?」とか「そこにあった熱はどこに行ったのですか?」とか。

 

 

 

 

文体遊び、あるいはおっさん少女リバース

ハロー!こちら私。私は誰かって?ふふふ。それには大した意味はないんじゃない?

 

  

ふむ。

以前、このブログに変更する前の前、実はオネエ文体で、美容やら男性論やら甘いものについて書こうとしたことがあった。その名もおっさん少女。少女の心をおっさんの身に宿した悲しき人造人間。

私はオネエになりすまそうとしていた。

えーと、つまり、ネカマではないのだが、なんというか、ネット上オカマだった。

なんとなくオネエだったら放言も許されるような気がして、楽な気持ちで有る事無い事書けたのだ。

今考えるとどうも、あまりに浅はかで参る。

 

既に記事は消してしまったけれど、オネエ風の文体で文章を書くのは楽しかった。その文体に(随分定型的なオネエだった気がするが)入り込むのがなんとも心地よかったのだ。

だいたいこんな感じ。

「こちらおっさん少女よ。やっと仕事終わりで帰ってきたの。まあったく、やんなっちゃうのが、電車でブツブツ呟くおっさん達ね。時々いるじゃない?「タクヨォ!バカヤローメ!何様だっての!」みたいなことを、聞いて欲しいんだか、周りの人に逃げて欲しいんだか不明なトーンで喋ってるおっさん。私も普段は少なくとも見た目は普通のおっさんとして生きてるから、あんなのと同列と見られてると思うと、悲しくて悲しくて、帰りにローソンでプレミアムロールケーキ買ったわ。ほんと美味しい」

みたいな。

オネエ文体の不思議は何故か筆が進むところにある。なんだろう?隠された自己の解放的な何かなのか?逆に自己の隠蔽のおかげか?よくわからない。良否は別にして、とにかくやたら文章は書けるのだ。

でも、本物のオネエではなかったので、すぐにネタは尽きて、リサーチしてまで書く熱量もなかったので、すぐにお開きとなったのだった。

でもあのスイスイ書ける感覚はとても好きだった。

 

今このブログの文体は正直なところまだ定まってなくて、色々試しているような試してないようなところでフラフラしている。まあ、誰のために書いてるわけでもないので好きにフラフラするだけなのだが。

 

文体といえば少し前に書店に並んでいた本で(多分今はブックオフに並んでいるはずだが)、文豪の文体でカップ焼きそばを作ったら云々、みたいなものがあって、私は割に文体遊びみたいなものが好きな方だし、気になってちょっとペラペラとしてみたら、およそほとんど文体の本ではなくて愕然としたのだった。

文体遊びというのは、普通、作家に特徴的な文章の傾向や、癖や、言葉の選び方で、その作家風の文章を書くことだと思うのだが、その本はその文豪達の有名な小説の有名な一部分を「カップ焼きそば」という言葉にすげ替えただけのもので、正直こんな芸でもなんでもないものをよく売ろうと考えたな、とちょっと関心した。

類似のものがツイッターで流行ってたのは見たことがあったのだが、まさか何のひねりもなく、技術も使わずに、出版しようというのは、これはツイッター上での熱がまだ完全に冷め切っていないうちに(そうでないと中身の良し悪しを判断されてしまうじゃないか!)出版まで漕ぎ着けるという強い意志と、行動力、プライドの無さ、そういう類の強さが必要なので、何というか、すごく「出版!」という感じがしたのだった。

 

それはそうと、文体遊びは好きなので、そのうちこのブログでもちょっとやってみようかと思う。ネタを考えておこう。

あとさっき、おっさん少女で書いたらあの短い文章でも結構楽しかったので、これも第2人格みたいな感じで書こうかなと思った。ついさっき、書きながら。

ではまた。その時に。よろしくね。アデュー!

 

イチロウ イン ザ スカイ with コニカミノルタ

イチロウ イン ザ スカイ with コニカミノルタ

 

プラネタリウムを見るために、わざわざ電車に乗って、押上はスカイツリーまで行ったのだった。ドナドナ。 

連れがサカナクションが好きで、今スカイツリーの「天空」というプラネタリウムでコラボやってるから見たいというので、半強制気味に、ついて行くことになって、見てきたのだけど、感想としては、アート風を吹かせただけのどうしようもないクソ(時々そういう人間もいますね!)と断じたい気持ちが9割だったが、幾ばくかの可能性も感じたのではあった。 

あるいは、私は、人でゴミゴミとした都市というのが嫌いなので、始まる前から否定的な係数がかかっているかもしれない。少なくともそう言われても否定はできない。 

休日のスカイツリーカップルや家族連れで溢れ、何が楽しいのか、どいつもこいつも精一杯のおしゃれ(秋のアーバンスタイルは、抜け感重視で軽やかさをプラス。トラッドなヴィンテージ小物で大人キュートを演出!だか何だか)でニヤニヤ顔で歩き腐り、似たようなセレクトショップやらブランドやらカフェやらを埋め尽くす様は、都市に馴染んでいる自分に陶酔する宗教者の群れ(スパゲティモンスター的な実態のない神さまに恥ずかしくない信心深さ!)に見える、というのは、もちろん、群れから弾かれたように感じる私の劣等感の裏返しなのは確かだとしても、うんざりする。みんな家帰って寝よ?

しかし半強制でやってきた私は帰る訳にも行かず、疲れやイライラで、連れといくらかギスりながらも、スカイツリー7階天空までたどり着いたのだった。 

 

暗い室内で、リクライニングを倒すと半球体の天井スクリーンは視界よりももっと広く、流れる映像を追うためには、顔を傾けることになり、私はVR(ヴァーチャルリアリティのVRです)に類似した臨場感があると感じた。

映し出されるイメージ群。

遠くに眺める星座。

そして海に沈んでいくこと。

それから、夜の都市。その高い建物の先端を見ようと、私は首を伸ばした。

そして星座の、骨のような連なりをくぐり抜けること。

常にサカナクションの音楽が流れている。

やがて骨の連なりは集合し、星になる。あるいはそれは地球かもしれない。

 

そこに流れてるイメージ群は、何か言いたげで、音楽のおかげで感傷的な感触をまとい、私は(我々は)その中にいる。物理的に。その埋没感。

でも端的に言って、それらはどれも意味などないのだ。

 

それは何かの表現のふりをした、雰囲気の、空間の、虚しい張りぼてで、何か意味があるふりをしているだけなのだ。

サカナクションの山口一郎のナレーションも、明らかに彼の言葉ではなく、台本を渡されて読んでいるだけだ。コラボレーションとは名ばかりの、名前貸し、曲貸し、声貸しでしかなく、虚しくなるばかりだ。 

もし、自分の作品として関わったなら、イチロウヤマグチはあんなに音響が(おそらく箱よりスピーカー自体が)悪いのに、それでもOKを出したとは思えない。音の解像度がやたら低く、常にぼやけていた。楽曲に後付けでリバーブかけたとかではない。きっとイチロウヤマグチが見に行ってたら、スピーカーの増設を提案したんじゃなかろうか?最悪でも音響のエンジニアを連れて行っただろう。

 

あるいは私の目が悪いのか(実際視力はあまり高くないのだが)、投写という形式の限界なのか、音だけでなく映像も解像度が低いように感じた。しかしこのプラネタリウム「天空」は、あのコニカミノルタが運営しているので、そんなことってあるんだろうか?これに関しては私の視力が原因かもしれない。

 

あるいは、意地悪く考えれば、それら中身のない張りぼてと、スカイツリーという面白くもないアーバン高所の親和性は高く、そういう意味でなら、つまり、スカイツリーの批評としてあの映像を作ったのだ、と読み取るのも可能かもしれない。

  

でも、そうだとしても、そこには映像に包まれる喜びというものはあった。方法としては可能性がまだまだあるのだと思った。

パラレルな感想。映像の方法としては面白さは感じながらも、その中身はクソなのだ。

あるいは世界のどこかにはあるのかもしれないが、プラネタリウム型の天井スクリーンを前提とした映像作品は、きっと面白いものになるはずなのだと思った。

 

「天空」の映像は、好意的に見れば、専門学校を卒業して3年、現場でテクニックは覚えたものの、表現の主体として映像を作ることもなく、機会も与えられず、でもいつかはと思うものの、「天空」with コニカミノルタの雰囲気(そこには当然スカイツリーという場所柄だって関係してるはずだ)を外れないというディレクションの中で、頑張ったり、虚しくなったりしながら、ある日、好きなミュージシャンであるところのサカナクションとのコラボレーションの企画が舞い込み、揺り動かされ、与えられたポジションの限界を感じながらも、せめてものものとしてCGデザイナーが作った、脱色された表現欲求のようなものに見える。

言うまでもないが比喩として。

でもダメはダメだし、クソはクソだ。

 

私と連れはプラネタリウムを出た後、帰り道、散々悪態をつき、途中ビアードパパでシュークリームを買って帰った。紅茶を入れて食べた。美味しかった。

悲しみの大空港2013

三谷幸喜監督 大空港2013

 

「カメラを止めるな」と「ラヂオの時間」の距離について何か書けないかと思って、三谷幸喜の方を久しぶりに見返したのだった。相変わらず面白かった。テンポ良く動き回る物語は、勢い付くともう途中で止められない。最初は確認のための視聴だったはずなのに、気づいたら最後までみていた。

初めて見たのはテレビでの放映だったはずだ。何歳くらいの時だったか?思い出せない。ただその時のCMに入った時の待ちきれない感情と、CM明けの暖かいブラウンのラジオスタジオの画面は妙に覚えている。

それから、そういえば最近の三谷幸喜作品を全然見ていないなと思い、プライムで検索して引っかかったのが「大空港2013」だった。

ふむ。正直酷かった。以下感想。

 

全編ワンカットによる映画で、舞台は空港。

空港!

場所柄、当然出演者は(エキストラ含め)かなりの数になるし、また、撮影場所はひらけた空間になり、余計なものが見えてしまう可能性が高くなってしまう。当然ガラスの写り込み等も計算する必要があり(空港のすぐ外で、ガラス張りの壁を背にした、詐欺師のオダギリジョーとお母さん神野三鈴の絡みなどは、もういくらかドヤ感を感じるくらいだ。ガラスとガラスの間の1メートル程の幅を使ってカメラをパンする所など、ついついはみ出たカメラを探してガラスに目がいってしまう。もちろんチラリとも入りこんだりはしない。)、その労力は大変なものだろうと私のような素人でもわかる。

 

演者もそれぞれ素敵だった。

主役の竹内結子は、次から次へとやってくる展開を、適切なリアクションといった表情で受け止めたり、躱したり、良いコメディエンヌだよなぁーと思う。

父親役の香川照之の安定感のある曲者ぶりはさすが。

母親役の神野三鈴もちょっとよろめいた所のある(そして描写しようとすると長くなってしまうような多面的な)性格を着地させている。

お爺さん役の綾田俊樹さんは、何せいい声で、喋りはじめるとそれだけで嬉しいようなところがあった。

母方の叔父役の生瀬勝久は、与えられた(求められた)役回りをきっちりこなしている。まあ、あんまり好きな感じじゃないですけど。

香川照之の不倫相手の戸田恵梨香は、もともと私は全然好きではなかった、というよりはむしろ嫌い(容赦なく本人に向けて悪口を言いそうな、そしてそれを自分の良いアイデンティティだと勘違いしてそうな口元を筆頭に)だったのだが、とても良い女優だなと見直した。記憶よりずっと綺麗だったし。

逆に酷かったのはコンシェルジュ青木さやかくらいのもので、彼女は芸人なのだししょうがないよねという感じ(というか、何で役者にしない?)。

 

 

この映画を見ようと思ったのは三谷幸喜作品だったからだが、穴はまさにそこだったように思う。主に脚本。

何が撮りたいのか不明である。

別に私としても、大団円か破滅しか認めないとかそういうつもりもないけれど、田野倉一家に訪れた危機的な状況(あるいは単純に炙り出された状況)にほとんど変更は起きず、羽田空港で起こっていたという天候不良と同じように、物語の展開に影響を与えながらも、終幕まで待っていれば全て何も無かったかのように扱われてしまう。

そんなわけないんだが。

炙り出された状況には、何の解決も起きていないのだから、当然それは一家に確実な変更を起こしている最中であるはずだが、1時間40分待っていれば、やがてそれっぽい雰囲気とそれっぽい音楽で、まるで嵐は去っていったように竹内結子は出発したヘリに手を振る。

いや、一家は松本空港から出ていったのだから合ってはいるのか。

 

嵐は止まずに去っていく。

じゃあ、炙り出されること自体が物語の主であり、状況の解決(あるいは物語の着地)は撮るつもりもないのだ、という事も理屈では考えられるが、それは却下したい。

何故なら、どう考えても、炙り出された状況というのはステレオタイプ、それも見ていて不快になるような価値観のステレオタイプなのだ。

普通に見れば、脚本家は登場人物達に愛を持ってはいない。それどころかそれに費やす時間さえもなかったのだろう。

何だか見慣れてしまったグランドホテル型三谷幸喜は、手癖としか言いようのないもので、テンポと時間配分にしか興味がないようだ。嵐がやってくる時間と出て行く時間を、冷めた目つきで確かめている。設定された時間に始まりの音楽と終わりの音楽が鳴ればそれで万事はオーケーなのだ。間違えないでほしい。万事解決はしていない。オーケーが出て見過ごされるだけだ。

 

それでも、登場人物達の行動や、扱われ方に苛立ちながらも、それでも何とか最後まで見たのはテンポの良さと、役者達のおかげだろう。ほんと役者でもった映画だった。幾分可哀想になるくらいに。

 

メゾン・ド・ヒミコを見た。

「メゾンドヒミコ」を見たのだが、その感想をば。

 

まず、考えていたよりずっと良い映画だった。

最近映画館やプライムで邦画を何本か見たのだが、邦画も全然悪くないなあ。と思い始めた。もちろんそういうからには、もともと私には、邦画はダメとか、ウンコが多いとか、そういう偏見があったのだ。

でも歳のせいかなんなのか。そんなことないなと思い始めた。

最近見たところでは、「カメラを止めるな」は最高だったし、「サニー~強い気持ち強い愛~」もどうなのという所は多々あったけど全体としては良かった。少なくとも見て良かったとは思った。

で「メゾンドヒミコ」なのだが、なかなか芯のあるいい映画だと思った。

私の性格上、気になる所、どうなのという所も書いちゃうのだけど、それはそれ。素晴らしいと思えるものだった。同じ監督の「ジョゼ虎」は学生の頃(何年前だ。つまりは恐ろしく昔)見て、ケッ!と思った記憶があるのだけど、これも今見たら感想がガラリと変わるのかもしれない。まあ、わからないけれども。

 

いくつかの急所となるような場面は本当に良かった。

例えば、死の淵にいる寝たきりのゲイの父親ヒミコの鼻から血が流れてるのに気づき、拭いてやる柴咲コウ。目を覚ましたヒミコと会話をするのだが、そのシーン。

会話自体も素晴らしいが会話の最後、ヒミコが「(それでも)あなたのこと好きよ」と言うと、柴咲コウは、何を言われたか分からないと言った風に、動きを止めたまま言葉が自分に浸透するのを待ち、それから嬉しさや憤りや戸惑いが浮き上がり、少しだけ背筋を伸ばし、感情が混い濁したまま、いくらか涙声で「なんなのよ、それ」と言う。

この、少しだけ伸ばされた背筋がとても良かった。

母親と共に捨てられたと思っていたが、いや、それは事実だが、母親とヒミコはその後も仲良くしていて(おそらく母親は、その後もヒミコを愛して、ないしは好きなままだったのだ。取り戻すことはできないにしても)だがそれを持って許せるわけもない。だが死の影を濃くするゲイの父親が「あなたのこと、好きよ」と承認の言葉を吐く。感情は混ざりあって浮かび上がり、戸惑い、少しだけ背筋を伸ばし、それから「なんなのよ、それ」と言う。

このほんの少し直した姿勢に、いろんなものを見る事が出来るだろう。素晴らしいシーンだと思う。

 

とはいえ、映画の始まりからこういうシーンがあることは決定付けられていたシーンではあり、人によっては、あーはいはい。となるかもしれない。私も少しはなるのだが、だが一方で、この人物達、この状況が希求しているセリフ、立ち位置はズレることなく守られる。これはこのシーンに限った話ではないのだが、状況が希求する到着点を容赦なく描くのだ。ゲイを必要以上に美しく撮ろうという意思はない。ゲイという生物的にねじれた存在。自分に正直に生きようとすると子供もなくそこで断絶する存在(今は代理出産など、本当に臨めばなんとかなると思うけどね。)。だがそれを持って子供に対する愛がないことを意味しないという事。そういう、何ともならない事を、何ともならないままに映画は受けれていく。

奇跡的な解決はない。

いくつかのセリフは本当に容赦なく、厳しい。でもそれがいいと思う。

この物語は本質的にはゲイである必要はない所でやっていて、ゲイの対する偏見を糾弾するわけでもなく、ゲイであることの素晴らしさを歌うわけでもなく、社会的なアプローチではなく、存在としてのゲイ、あるいはゲイという存在の在り方を物語の機能として見ている。それがいく所はいくといったような容赦なさに繋がっていて、むしろゲイをキチンと撮れている。と私は思う。ゲイ文化的にリアルかは知らないので分からないですけど。

 

良いシーンも多かった。

オダギリジョー柴咲コウがセックス出来なかった所も良かったし(触りたいとこ。ないんでしょ)、

ルビーさんを息子に引き取って貰った後の、辛いやり取りも良かった。

すでにちょっと書いたけど上の柴咲コウと父親のやり取りは、その前のくだりから良かった。

基本的にセリフ周りが良かったと思う。脚本が良いという事だろう。

 

一方でどうかなと思ったのが、

たとえばディスコ(だか潰れたキャバレーを居抜きで作ったダンスホールだか)のダンスシーン。

あるいはディスコやハウスミュージックの祖としてのゲイカルチャーに目配せしながら、身体と汗と動きというセックスの予感、物語が大きく動く予兆、そういう機能を求めてたのかもしれないが、あれはどうだろう?頭ではそういう機能を考える事はできるけど、機能してなかったのではなかろうか。

割に唐突だし、何よりダンスシーンが官能的でなく、安いMVみたいな正面からの撮影は、それまでのシーンの美しさからの落差でガッカリする。

またダンスホールに繋がる衣装遊びは、繊細さと官能のないソフィア・コッポラという感じ。あの前後はちょっとどうした?という感じがある。

 

主演の柴咲コウの演技は、上に書いた素晴らしいシーンもある一方で、割と(好みの問題なのかもしれないが)嫌なものが多く、演技のニュアンスでコミカルにするようなシーンでは総じて子供じみていて、映画に合ってないようにすら感じた。あるいはコミカルでない所も、柴咲コウの演技のせいでコミカルなニュアンスを与えられてしまった可能性もなくはない。でもセックス周りは良かったと思う。

 

あと、ゲイに対する差別のシーンは今の感覚からすると、いささかわざとらしすぎるというか、一昔前の漫画的ステレオタイプに見えてしまう。実際に一昔前の(あるいはふた昔前の)映画なのだから批判するに当たらないのではとも思うが、何だか浅はかな印象を受けてしまう。13年前にゲイの周辺環境がどうだったかを本当に知らないので、あのくらいのことは当然あったと言われれば、そうなのかとしか言えないけど。

でもそこからエピソードを綺麗に繋いでいく脚本の上手さは素敵で、よくできてるなと思った。

 

あと、あまりテーマ主義の映画というのも好みじゃないのでそんなに気にならなかったが、視点というかテーマのラインがいくつかあって、あまり腑分けせずに、半ば混ざったまま視聴者の前にドスンと置いていく所があって、気になる人は気になるかもしれない。

エピソードとエピソードの関係が視点(テーマ)ではなく、時節と雰囲気(あるいはカタルシス)で着陸すること。

でも解決できないテーマなら拾って置いておくしかないというのもわかる気がする。そういう扱い方も、ゲイという最終的には断絶的な存在(あるいは生物的にストレートではないものの、そのように存在しているという事実)には正しいのかもしれない。

 

批判的な事を書いてるほうが筆が乗るという嫌な性格をしているので、批判の方がやたら長くなってしまったが、良い映画だと思う。昔見て、ケッ!となってしまった「ジョゼ虎」も機会があればもう一度見たいなあと思うくらい。

 

 

愛のチクワ天

チクワの天ぷらが好きだ。と改めて思う。

駅そばを食べるような時は大体チクワ天そばを頼むし(今日の仕事帰りも食べたのです)、居酒屋でチクワ天に七味マヨネーズが付いてるようなのがあれば、まあ、頼んでしまう。

カリッと揚げた香ばしいやつに天つゆだの塩だのというのも好きだし、スーパーのお惣菜のようなふにゃけたやつに、お醤油を垂らしただけというのも独特の味わいがある。

ほとんどチクワの味がしないくらい熱々のやつをつつくのもいいし、チクワの味がしっかりしたものなら、冷めた頃合いがまた美味い。正直な所、味のしっかりとしたものでなくとも喜んで食べる。ギブミー、チク天。

本格派も、その場の食欲を満たすごまかし的な食べ方もいける。愛らしいやつよ。チクワ天。

 

家で天ぷらを揚げることはまずないので、チクワ天を食べる時は、外食か惣菜と決まってるのだけれど、時々困るのが、チクワ天を頼んだのに、磯辺揚げが出てくる時だ。

いや、あなたはこう思うかもしれない。

どうでもいい。

そうかもしれない。でもそうでもないかもしれない。

私の中ではチクワ天が求める状況と、磯辺揚げを求める状況は結構違うのだ。

まず、私はツユに浸ったチクワ天が好きだ。だが、磯辺揚げをツユにつける習慣はない。磯辺揚げを食べるなら、海苔の香りを感じたいし、であるなら、塩や、せいぜいマヨネーズで食べたいのだ。

だのにだ、ソバのトッピングに頼んだチクワ天がチクワ天ではなく、衣に綺麗な薄緑の模様が刻まれている事があるのだ。待ちたまえ。私はチクワ天が食べたいのだ。ギブミー、チクワ天。

あるいはちょっとした香りの変化でグレードアップしたような錯覚を起こさせたいのかもしれないが、それは違う食べ物なのだ。

いや、勘違いしないでほしい。何も私は磯辺揚げを否定したいのではないのだ。私も磯辺揚げは好きだ。チクワ天より前に出逢っていたら、一心不乱に口説いたかもしれない。その魅力は疑うべくもない。けれど今はもうダメだ。私の頭にはチクワ天の可愛らしい笑顔が浮かんでいて、それをなかった事になどできはしないのだ。

 

なんで違う食べ物を出してくんのよ。

もちろん磯辺揚げも美味しいし、喜んで食べますよ。磯辺揚げは揚げたてがいいな。でもあんまり冷えたやつは食べたくない。何故かはよくわからないが、チクワ天ならしみったれた状態のそれも味わいとして受け入れることができるが、磯辺揚げはふにゃふにゃでしかも冷えてると、何だか悲しみに似た硬い感情が心の底にあるのを感じてしまう。

磯辺揚げにはいつまでも美しく魅力的であって欲しい。華やいだ気持ちがもうそこに起こらないのなら、たぶんもう会わない方がいい。我慢して思い出を汚していくぐらいなら、その思い出を胸に別々の道を行ったほうがいい。

文章にして気づいたが、これはいささか私の頭がおかしいのかもしれない。

だが嘘はない。基本的には。

 

あー、何というか、今日はチクワ天入りのソバが食べたかったんですけどねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

聴きました「sonatine」感想

前回の記事のおさらい。

若手ミュージシャンd.a.nの新譜を数日後に控え、お尻(私)は遠足前日のように楽しみと緊張とソワソワとムズムズを抑えきれずにいた。あるいはお尻(ケツ)に虫でもいるみたいに。

現在1番好きなミュージシャンなのは間違いないのだが、新譜「sonatine」から先行配信されている曲を聴くと、カッコイイがよく分からないとか、そもそもこれはダサさ半分では?とかが散見され、「d.a.n」の頃とは違うんだなと思わされる。思わされながらもカッコいい。

さて新譜の全貌は如何に?

 

といったところ。

さて「sonatine」が正式にリリースされ、ここしばらく、こればかりを聞いている訳なのだ。

さて感想はちょっと待ってほしい(架空読者の君よ。少し待ってほしい)。実は想定外というか、思い違いがあったのだ。

前回記事は、新譜の全貌や如何に?的なものだったが、実際に聴いてみると、大体は聴いたことがあることが判明したのだ。

「sonatine」リリース少し前に、d.a.nのライブを見に赤坂まで行ってきたのだが、そこで演奏した新曲でほぼ(というかおそらく)全てだったのだ。

もちろんその時と印象が違う箇所もあるし、インストの曲は演ったのかどうかも怪しいのだけど、それでも、やはり大体は聴いていたのは間違いなく、全くの初見ではない。

何が言いたいのかというと、全体の印象は前回の記事と変わらないのだが、そりゃそうだ。ということ。だって聴いてたんだもの。

 

なので今回は方針を変更して、具体的な曲のここが分からん!をやろうと思う。

あんまり批判的な感じにはしたくないので、新譜で1番気に入っている曲の「borderland」にしたいと思う。

この曲ははっきり言って最初からよく分からなかった。

 

メロウな感触の中で、軽快な心地いいリズム。いかにもd.a.nらしい。また、チルアウトしてからの、終盤のソウル感すらある盛り上がりも素敵だ。珍しく歌い上げるような所はグッとくる。

一方でよく分からないところもある。

まず構成だ。

この曲は大体3つに分けられてて、歌詞もそれに合わせて展開している。物語的なところのある歌詞で、3つのパートが進行するにつれて、歌詞内の物語も進行する。のだが、3つのパートはAメロ、Bメロ、サビ、みたいな関係ではなくて、独立しているように感じられるのだ。Aパートを受けてのBパートではなく、曲はそこからリスタートしているような感触がある。Cパートもそうだ。

音楽は地続きではあるものの、パートごとは関係してない。

歌詞の物語の時間の「飛び」と対応していると考えることも可能だが、うーむ。

どうなんだろう?

謎だ。

どういう効果を考えていたのだろう?

 

2つ目は山下達郎のモノマネである。声マネだよな?「雨が降って、雨が降って」のところ。SSWBでは歌詞のオマージュがあったし、なんかのインタビューでも音楽的な影響があった事を語っているのだが、それにしてもである。最初に聞いたときは笑ってしまった。

果たして声マネはオマージュといえるのだろうか?

もちろんただの茶目っ気なのだというのも有りだが、別の曲で歌詞のオマージュをしていると、d.a.n的にはこれはオマージュ区分として考えているのでは?とか考えてしまう。

いや、たまたま似てるレベルじゃねーんだよなぁ。うーむ。

 

でも、そんなこんなで頭にハテナマークが浮かんだり、クスクス笑ったりしながらも、聞くたびに馴染み、これ良い曲なんですよねぇと思う。リリースしてからかなり聴いてると思うけど、これ良い曲なんですよねぇと思う。

 

他の曲にも、ちょいちょいそういうハテナマークが浮かぶ瞬間はあって、でも聴き続けるにつれて気にならなくなるのだった。というか、ハテナりながらもカッコいいのは間違いなく、「良く分かんないけど、そういうもんかな」ってなったのだった。

でも、一個一個あげるのも大変なのでやらない。

 

私は思うのだけど、「良く分かんないけど、そういうもんかな」というのは、いわば白旗のようなもので、あるいは音楽の趣味や評価基準をグラグラと揺さぶられ、変更を余儀なくされている最中なのではなかろうか?分かんないのは事実なのだが、それを元に評価を下げるのは間違っている予感、あるいは可能性。自分が分からないだけで、素晴らしい何かだと思う。そんな感覚。

もう結構な良い歳なのだが、今になってもそういうものに出会えるのは悪くない。全くもって悪くない。

 

そんなこんなが「sonatine」の感想である。

全くね。すんごく良いアルバムなのでみんな聴いたら良いのになぁ。