感情の極北としてのプライマルスクリーム

街を歩いている時などに、自分の中の苛立ちに気づくことがある。何に苛立っているのかよく分からない。

連勤明けの休日で、体が疲れているのかもしれない。

あるいは3日前に食べたカップ焼きそばが荒らした胃が、未だにこっそり危機信号を送っているのかもしれない。

単に将来の不安がひたひたと足を濡らしているせいかもしれない。

 

少なくともすぐ思い当たるような理由でなく、よくよく考えてみても本当にそれが原因なのかは不明。そういうタイプの苛立ち。

 

そういうことに聞きたい音楽で気づくことがある。

何とはなしに攻撃的な音楽が聴きたいと思っている時がある。

スマホのライブラリから気持ちにフィットする曲を探すのだが、「なんだか違うね」を繰り返して、プライマルスクリームに着地することが多い。

XTRMNTR」や「Evil Heat」の頃のプライマルスクリーム。

2000年前後のアルバムだ。

驚きの20年前。

でもこちらも古いおじさんだからか、聴いていて古さを感じることはあまりない。むしろぴったりとしている。

この文章の本題はこのことだ。

巷でよく言われる、老化による感性の固着みたいな話。

 

一般に、年を取ると感性が鈍る、とか、心が石みたく硬くなる、とか言うじゃないですか?

フィジカルが老化するのだから、心だって老化する。みたいな考え方がベースにあるのかもしれない。

でも自分が実際に老化の中にいると、ちょっとニュアンスが違うんじゃないかと思う。

感性が鈍るというのは、現象としてはそういう感じのこともあるとは思うけども、その原因は心の老化というよりは、単純に人生に慣れてしまったせいなのではないか。

 

何十年と生きてくると、人生に慣れてしまう。

ラベルが貼られた引き出しに入れることができないような出来事は減っていく。

ましてや新しく引き出しを作ることから長く離れると、ラベルを貼り直すことすら億劫になって、「まあ、ええやろ」精神でありものの引き出しに無理やり入れてしまう。

分かった気になってしまう。

いくつになっても新鮮な心持ちを保つのはむつかしいことなのだ。

でも引き出しから取り出すのは、言うなれば感性や感情を働かせることそれ自体は、むしろ簡単に行える気がする。

そうでなければ私を含む年寄りが涙もろくなったりはしない(むしろ引き出しがバカになってキチンと閉まらないのでは説)

 

 

ただ、感情の振れ幅、強さといったものは薄まったようには思う。

 

さっきのラベルの話にも関係するのだけど、全く初めての美しいものを見た時でさえ、感情の多くはいつもどこかで感じたものになりがちだ。

あらゆる壁が崩れ落ちるような怯えや不安、冬空の冷たさと思いどうりならない恋心が重なって突き刺さるようなことは、仮にまた私の人生に起こったとしても、それはもう言葉の話で、酷い場合には鑑賞される対象にすらなりかねない。

そうなれば当然、あの時以上に崩れ落ちたりもしないし、ぬるいだろう。

 

 

疲れの残った休日に湧いて出た謎の苛立ちにプライマルスクリームの「Accelerator 」をあてがっていると、自分の苛立ちなぞここらが限界なのだというのを感じる。

小市民の人生。

 

ワイルドリフト最底辺の光景

ワイルドリフトを始めて少したった。

ランクは未だにシルバー。

ここではチュートリアルを終えただけの下手クソども(私も含む)が、地獄の釜でグツグツと煮られている。熱い。

 

今日も0/5/1ヤスオが赤バフを盗もうとして死んでいく。

 

シンジドサポートがひたすらウェーブを押す(そして死ぬ)

 

ジャングルを押し付けられた気の優しいジグスが赤を殴り、削られすぎてリコールする。

 

そう、ここは最底辺。地獄の釜の底である。

 

 

……しかし、ちょっと驚くのが、そんな最底辺でもそれっぽい罵倒語が飛び交っている事なんですね。

誰も彼もが下手くそで、ミクロもマクロもなく、あっちでワーワーこっちワーワーやっているだけなのに。

なんだったら今日初めてmobaに触れた人がチームメイトにいるようなランクなのに。

なのに、なーんでそんな言葉を発してしまうのか。考えなくてもマイナスしかないのは分かるじゃないですか。

 

いくつか可能性を考えてみた。

 

1つ。

前に自分が言われた罵倒をそのまま繰り返している。

きっとその時に学んだのだ。「失敗している仲間にはこういう言葉を投げかけるものなのだ」と。

可愛らしいではないですか。お父さんのポーズを真似する子供のようだ。

そしてこう言う「your feeder

 

2つ。

配信者のリスナーで、その時に見たもののモノマネをしている。

わざわざ配信開いて見ているぐらいだから、好意的な気持ちが多分にある。

同化したい気持ちが、彼に演劇じみた発言をもたらす。

are you blind?

 

3つ。

実生活が辛すぎてアタる場所を探している。

サモリフに迷い込んでしまった哀れな魂だってあるのだ。

その発言はまるで自分自身の無力さへの呪詛のようだ。

noob top mid sup ad

 

4つ。

連敗し過ぎて頭おかしくなってる。

 

 

言語の違うアジアンがたくさんいるので、罵倒を届かせるためにわざわざカタコトの英語を使う親切心にはなかなか恐れ入る。

だって「俺の怒りや苛立ちをちゃんと聞いておくれよ!プンスカ」ってことじゃないですか。なかなかのエネルギーだ。

 

ふふん。

と笑いながらも、またも0/7/2で「idiot」などと言われるので、まだしばらくシルバーっぽいのである。

 

あの「ギュン!」について

時々思い返したように文章を書きたい気持ちになる。

昔には小説を書きたいのではないかと勘違いをしたこともあるが、どうもそういうわけでもなく、ただ文章が書きたいのだと最近は思うのだ。

別に小説ではダメという事でもなく、結局のところ、文章であれば何でもいいのではないかと思う。

文章を書くというのは、それだけでなかなか楽しい行いなのだ。

そうでなければ、文字通り誰も読まないブログなど書ける訳がない。

 

どんなところが楽しいのか?

私が思うに、意味が生まれる瞬間の「ギュン!」って感じだ。

頭の中で漠然と文字にしようと考えている事柄。それは風景だったり、感情だったり、ある種の直感だったり、なんだっていいのだが、それらを文字に起こす時、どうしようもなく飛躍が起きる。

曖昧模糊としたそれを、「よろしくお願いします」とばかりに言葉に託す。

頭の中にあるイメージなり概念が、仮初の姿としての言葉を与えられるというのは、断絶した時空を乗り越えるような無理がある。

そして、言葉は平然としたまま、当然と言わんばかりに、私とは無関係と言っていいほど身勝手に意味を帯びる。

その飛躍。その「ギュン!」。

でも私は、その飛躍をまるで自分の一部であるように感じる。まるでそれが内的な飛躍で、一定の妥当性があるように誤謬する。

 

それから、右手をバタバタ、左手をバタバタしてバランスをとって、軟着陸させる。

 

それから、昔おしめを替えてやった甥っ子の成人式を見るみたいな、心配と誇らしさと、そうはいっても我が子ではない寂しさを感じながら自立したことを認める(もっと背筋を伸ばして欲しいなどと思いながら)。

 

そしてテキストは生まれる。

 

何か「ギュン!」の先も書いてしまったが、まあ一連の操作が好きなのも事実だし楽しい。

 

 

世間には、言葉と自分をほとんど同一視している人もいる。

その人達はきっと無邪気にも言葉について考えたことがないか、言葉との間に本当に距離のない天才なのだろう。

羨ましいような羨ましくないようなところだ。

彼らはきっとこの「ギュン!」を感じたことはないだろう。

絵に描いた動物が勝手に動き出すような奇跡的躍動、それと関係を持てる、関係を持っていると誤謬できる幸福を知らないのだ。

何時何分何十秒、地球が何回回った時?

そういえば私が小学生とか、あるいはもっと幼かった頃の話。

口喧嘩などをしている時に「何時何分何十秒、地球が何回回った時?」という言い回しがあった。

「証拠はあるのかよ」とか「証明できるのかよ」とかそんな感じの言い逃れの言葉だ。

「タロちゃんこないだそう言ったじゃないか!」

に対して

「知らねーよ。何時何分何十秒、地球が何回回った時?」

である。

これはおちょくっている。言われた時にはずいぶん頭にきた記憶がある。

 

しかし、改めて考えると割と不思議なところがある。

出来事がいつなのか、秒単位の正確な日時など記憶していない事を突いて「そんなあやふやな事では認めるわけにはいきませんなぁ」とやりたいはずなのに「地球が何回回った時?」という謎の飛躍が入る。

これは本当に謎だ。

まず起点は何処なのか?何をもって地球の回転のスタートとするのか?そもそも、なんで地球の回転数で答える必要があるのか?

そういったごく普通の疑問が返ってこない事を前提としている。

「うるせー、質問してんのはこっちなんだよ!」

で押し通せるなら、最初から「うるせー」だけで充分じゃないか。

何故相手にツッコミ所を用意するのか。

まあ、その意味不明さがおちょくりポイントでもあるのだが。

 

それに年をとった今、改めて思うのは「地球が何回回った時?」というのは何か詩的だなという事だったりする。

日常の中で不意に、宇宙サイズの存在論に触れてしまった時のような、妙にフレッシュな、妙に冴えた感覚がある。

それはもう詩といっていい。

だからあの時私は、「どうしたんだい。急に。君はずいぶん詩人なんだな」とでもおちょくり返せばよかったのだ。

ジャズがオッサンの打ち明け話であるならば

昔雑誌かなんかでタモリが「ジャズっていうのはさ、俺の話を聞けってことなんだよ(意訳)」と言ったそうな。

うーん。さすがタモさん。さすが元 god of お昼。

だから退屈な所もあるのはしょうがねぇんだと。どんなに見事でも所詮はおっさんの打ち明け話だから。

 

以前、ポップミュージックは物語の提供でもある的なことを書いた故、その周辺のことをねちねちとまだ考えていた。

それで思った。「俺の話を聞け」っていうのは物語の提供のフォーマットの話じゃないか。

モダンジャズは「おっさんの口頭による物語」といった具合。

 

ではロックは?

ロックはやっぱり「映画・テレビなどによるマスな物語」になるのではなかろうか?

つまりはマスメディアによって作られたスター制度による物語提供。

そこではアジテーションが強く作用し、また網目の大きな共感が求められる。

なかなか良い線ではないだろうか?

 

ヒップホップが地元に根差したストリートのリアル感を重視するのは「噂話の物語」であるから、というのはどうだろう。

その物語はやはり語り(ラップ)になるだろうし、また街の誰それの武勇伝や成功がネタになる。大風呂敷も込みで面白おかしく語られるそれは、本当らしい(リアル)というのが大事なポイントなのだ。

「エッ、マジかよ」ってのが大事。

ジャズみたいなおっさんの打ち明け話とはちがう。

だが売れれば売れるほどロックと近似していく(本当にそうか?要検証だが、面倒だから検証などするわけない)

ちょっと無理やり感ありますかね。

 

 

今現在(2020)、時代の空気を構成するような、その隆盛が時代や場所そのものであるような音楽は無くなってしまった気がする。

ネットによって古きも新きも楽に情報にアクセスできるようになり、サブスクでさらに加速する。音楽は、時代の空気と一緒に肌にまとわりつくものではなくなって、大きなアーカイブスから選択するものになった。

まるでSNSでコミットする人やクラスターを選ぶように音楽を選ぶ時代。

はたしてそれは素晴らしい事なんだろうか?

基本的には素晴らしい事なんだろう。

 

ふむ。

インターネット、特にSNSの時代に特有の物語のあり方とは、その音楽とはどんなものなんだろう?

端末から眺める世界。選択される情報。エントロピーという言葉がよく似合う緩やかなコミットとうねる波。いくらでも見つかる対論。ポストトゥルース

安直にDTMEDMと結びつけたくない気持ちがある。

ヴェイパーウェイブ?

私にはジャンルさえ定義できない!

サンプリングや引用は当然の構成要素になるんだろうか?

あるいはMIDI音源に特有のジャンルがあったら、ついついインターネットと結びつけたくなっちゃうかもしれん。

いやMIDIはファックスか?

AIによる自動生成音楽に特有の感触があったら、次世代の音楽ジャンルとして機能するだろうか?それとも今世代なのだろうか?

自分で選んでいるつもりで、その実アルゴリズムでコントロールされた情報を読んでいる私達の、清潔な感情と自動生成の音楽に似たところがあればいいな。

きっとやっぱりなって思うだろう。

 

まとまりも結論もないまま終わり。

「コロハラ」とかいうクソ造語解説

とある造語がネットとかいう便所に出現した。

「コロハラ」

だそうである。

検索すれば記事が出てくるので興味があれば読んでみても良い。時間の無駄だと思うけど。

 

さて私はこの造語が紛れもなくウンチであることを宣言し、またその解説をしてみようと思う。

急げ私。きっと明日には(あるいは今日でさえ)みんなそんな言葉が存在したことを忘れてしまう。

何故、そんな取るに足らない、出現と同時に忘れられてしまうような泡みたいな造語にムキになっているのか。

何故かというと、この手のちょっと頭のおかしいような言語感覚の言葉をみかけると胃がムカムカしてしまうのだ。まして今回のようにバズってしまい、そのクソみたいな造語をまんまと使用して会話をしているのを聞くと、みかけると、「すごく嫌」なのだ。辛い気持ちになる。

そうである。バズったせいで目にしてしまったこのクソ造語「コロハラ」に対する仕返しである。この胃のむかつきを何とかして解消したいのである。

 

まず、この「コロハラ」がどういう意味なのか解説しよう。

すごく単純にいうなれば、咳などをしてるだけの人に「コロナなんだろ!あっちいけ!」だの「仕事に来るんじゃねー!」だのというハラスメントを行うことらしい。

また感染者が出てしまった地域や建物などに、心ない言葉をぶつけるのことも含まれるという。

 

つまり、タイムリーな話題である所の「コロナウィルス」という単語を使って注目を集めて、そんでもっていつも通りの手口の記事で、一本いくらの銭が欲しい。まあ、そういうことである。

それは構わないし、そんなクソ記事が世に出るのはしょうがないと受け入れているのだけれど、いくら何でもこれは言語感覚は酷すぎる。

どの辺が酷いのかをこれから説明したい。

 

その1

コロナハラスメントでは意味が通らない。

通常ハラスメントというのは「嫌がらせ」という意味であり、被ハラスメントとでも書かない限りは「行われる」ものである。

つまりね、普通の言語感覚だったら、「コロナハラスメント」というのは「コロナ」を使って「ハラスメント」を行うことを指すはずなのだ。

「よくも!ちくしょう!我が身に潜むこのコロナ、見事会社を乱すテロと変えてくれよう」というような意味になるはずなのだ。

「マタハラ(マタニティハラスメント)」もそうなんだけど、この手の造語を作る人は、こういう言葉の構造が分からないらしく、「コロナ周辺に起きるハラスメント」とか「マタニティ絡みで起きるハラスメント」として作り出してしまうようだ。

思いついた時に変だと思わないんだろうか?

範囲が異常に広く、ハラスメントの方向性も不明になると思わないのだろうか?

ムカムカする。

 

その2

100歩譲って造語を受け入れても、その内容では「コロナハラスメント」ではなくね?

普通それは差別やパワハラと呼ぶものだ(自分で書いていて「差別」「パワハラ」という全然違うものを1つの言葉の説明としてを並べることに苦しさを感じる。それもこれも、造語自体が頭おかしいからである)。

ビューを稼ぐためにコロナという言葉を使いたいのは分かるが、わざわざ本質から離れるのは良くない。良くないしムカムカする。

 

また、社会によるヒステリックな反応としか読みとれない場合もあり、その場合メンタルケアや適切な情報の公開の話になるはずでは?

何にしろ切り口は「コロナハラスメント」ではねーだろ。

ではねーし、ムカムカする。

 

その3

「コロハラ」では伝わんないでしょうが!

パッと見で意味が分かった人がどれだけいたのだろうか?

お金のためならクソ造語も作る。それはしょうがない。世の中にはドブさらいみたいな、やらざるを得ないからやるという文章仕事もある。プロフェッショナルなドブさらいだって世の中には必要なのだ。どうせ誰かがやることになるのだ。

でもさ、だからこそパッと見で分かんないとダメでしょ。編集の人仕事してんのか?仕事のための仕事なら、仕事だけはちゃんとせえよ!

 

あー、ムカムカする。

以上。

 

 

 

ニック・ドレイク「ピンクムーン」

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ニック・ドレイクの「ピンクムーン」という酷く美しい曲がある。

髪の長い青年が、どこか禍々しく光る赤い月の下で、夜じゅう早足でどこかへ歩いていくイメージが頭に浮かぶ。彼の体の一部はすでに冷たくなり始めている。

 

 

誰だってそうなのかもしれないが、若い頃に聞く音楽はどうも感傷的なものが多かった。若い頃はナルシスティックな甘えた感性を離れることが難しく、またそれが許されるからだろう。

そういった時期にニック・ドレイクの音楽は、特に「ピンクムーン」は避けがたい魅力があった。

また、生前は評価されず、若くして死んだ後に評価が高まるという耳に甘い物語も、興味を引いた。

 

私がまだ髪の長い青年だった頃、大学への往復は自転車を使っていて、大抵音楽を聞いていた(今だったら怒られちゃいますね)。

田舎にある大学だったから、夜道は暗く、夜空は綺麗だった。

そんな時に「ピンクムーン」を聞くと、なんだか月に追いかけられているような気持ちになったものだ。避けがたく停止した時間に呑まれていくような。

 

今「ピンクムーン」を聞くと、あの時ほど死の影を感じない。

優しく話しかけてくる友人の体が、よく見ると少し透けている、程度の死の気配だ。

「ピンクムーン」録音時にニックはすでに鬱病でボロボロだったいう話が、耳か、記憶か、あるいはその両方に影響を与えたのだろう。

だが、今聞いてもその美しさは変わらない。

酷く美しいのだ。