電車からこぼれ落ちるおじさん

チャオ。

オッサン少女現る、の回よ。

 

急だけど、電車通勤しているの。私。

でね、なんかね、実は前から電車の中って居心地悪いなーと感じていたの。居場所がないっていうかね。でも、こないだやっとその理由の1つに気づいたの。日常の気づきis大事。

それは車内広告。

知ってると思うけど、電車って雑誌の中吊りを始めとして、ほーんと広告ばっかなのよね。

扉のガラスにはぺたぺたとシールがはってあるし(学校の広告が多いと思う。ナゾの邪馬台国男性。もしくはナース服のコンビのコメディアン)、

入り口のイスのうしろのガラス(ここはビューティ関係か自己啓発の本ね)、

連結の横の壁(ここも本。柔らかい書籍を貼るならここって感じね。こないだ、ヘルシーお菓子の広告も見たわ)、

入り口の上のモニター(メーリオゥ)。

毎日たくさんの人たちが乗ってくるんだもの広告をうたない手はないわよね。メイクマニー。

 

広告はターゲットをイメージしないと効果は望めない。

ネットでは履歴から情報を拾いあつめて、その人が欲しくなりそうな広告を貼りつけるのはもはや当然。テレビも見てる人がどんな人かをイメージして、それに合った会社のCMが流れることになるわ(うちにピッタリだ思う会社がCMする時間を買っているのよね)。

きっとこういう年齢と性別なんだろうなとか、こういう生活だろうなとか、だったらこういうものが欲しくなるよね。って、イメージして、こんなのあるのですけどってCMしてる。

でもそこにはね、裏を返せば、こういう年齢だったら、この性別だったら、当然こういう生活を求めているよな?というような思い込みや、もっと意地悪くいうと、そういう生活こそが正しい生活なんだよ。とか、それを求めていて当然といった一方的な価値観の押し付けがあるように感じられるの。少なくとも私には。

被害妄想がすぎるかしら?

 

電車の中の広告を見ていくと、電車に乗っている人へのメッセージがいろいろあるの。

キレイでいたいでしょ?いい学校に行きたいでしょ?成長しなさい。話題のさきっちょについてきな!ゲスな気持ちを代弁するよ!金かすよ。美しい人生とはこういうものです。ってね。

なんだかね。そのメッセージのほとんどに共感できないの。彼らの提案する真っ当な人生っていうものに共感できない。共感できないと、なんだかね、ああ、このひとたち(メッセージを飛ばすひとたちだけじゃなくて、電車を埋めるひとたちみんな。みーんな)は私と全然違うんだなあと思ってしまう。それだけならまだ良くて、靴に入りこんだ石みたいにみんなの邪魔をしているような気がしてしまうの。

そんな訳はないのにね。

困ってしまうわね。

かってにメッセージを読みとって、かってに傷ついているのだから手に負えないわね。

でも、そんなこんなで通勤中は気分がさえないの。

もちろん仕事したくなくて気分重いのもあるんだけどね。ふふふ。

 

もしそこに、私にぴったりの広告が貼ってあったら気分はさえるのかしら?社会の一員として受けいれられたような気がして誇らしくなるのかしら?

イメージしてみる。

ある日出勤するために電車にのると、そこに私のための広告があるのに気づく。それはみんなにむけたものでもあるの。マジョリティであることの安心感。真ん中よりちょっとは上なんだっていう自負心。商人からうやうやしく紹介される美しい宝石。広がる鼻の穴。チロチロと燃え始める所有欲。

うーん。

どうかしら?

正直よくわからない。なんか間違えている気がするわね。

きっとみんな電車の中でそんなことは感じないで、まるで空気のように広告やメッセージを吸って吐いている。だから私がその空気は息がつまるといったら、(耳を傾けてくれる変わり者の聖人みたいな人ばかりだと仮定して)みんな困ってしまうんじゃないかしら?

 

でも、私が感じる疎外感みたいなものは事実で、それが私がかってに感じているだけなのだとしても、それはあるの。

私はいい年だけど、こういう気持ちをどうしたらいいのかまだわからない。差別されてる訳でもなく、ただこぼれ落ちていることの悲しみみたいな感情。

なんか大げさになってしまったわね。

実際にはなんか気分が沈むなぁ、とかそんな程度なの。言葉にするとどうもね。なんか感傷的な文字列になってしまう。困るわね。

でもそれに気づいてしまった今、見えない風に過ごせばいいのか、自覚しているべきなのか、メッセージに合わせた生き方をするべきなのか、腹をたてるべきなのか、わからない。

わからない。

わからないまま終わり。

 

アディオス。

意地の悪い親戚によるgone home感想(fire watchとの時制の違いについて)

恐ろしいことに、私はgone homeというゲームを勘違いしていた。

 

何を勘違いしていたかというと、開発元を間違えていた。てっきりfire watchデベロッパーの前作だと思い込んでいて(前回の記事にもそう書いてしまった)、この文章を書き始める直前までfire watchとの比較で話を進めるつもりでいた。でも、文章を書く前に調べたら……参ったね。

内容も決まってたのに。これでは辻褄が合わない。

どうしよう。

感想文なんて書かなきゃいいじゃないか?シンプルな事実。

でも書く。

書きたいことがないわけでもないから。

それはおそらく、全体としてfire watchの方が面白かったというような内容になるので、gone homeが大好きプレイヤーは読まない方がいいと思う。性格の悪い親戚みたいに無神経に分かったような事を言い出すこと必定なので。

さて、言い訳が終わった所でネタバレ込みでやっていこうか。

 

gone home

外では冷たい夜の雨がふりしきり、時折の雷が窓から光を刺している。暗がりの中で、プレイヤーは古い洋館を歩き回ることになる。一人で。

その館は周囲の住民達からは「気狂い屋敷」と呼ばれている。屋内を見て回るとあなたは交霊の儀式の跡を見つけることになるだろう。だが館にはすでに誰もいない。

地下へ降りると、今は使われていない使用人の部屋がある。古い時代の痕跡。そこでは何かの事件があったはずだ。

などと書くと、ホラーゲームかな?と思うが、実際にはそんな事はない。プレイヤーは長期の旅行から帰った長女で、旅行中に家族が父親の生家に引っ越してしまったのだ。旅行を終え、引っ越し先に着くと誰もいない。引っ越しの後の残骸。開け途中のダンボール。

長期の旅行のうちに家族のあり方は少しずつ変わってしまったようで、彼女は家の中を見て回り、そこで何があったのかを調べていく。怖いゲームではない。

とはいえ、上に書いたホラー的な描写は全部がジョークということでもなく、お話へ導く雰囲気作りとしてホラーな感触が用意されている。でも色の薄いカラーフィルターみたいにホラー風に見せているだけであり、ストーリーラインは現実的な範囲を離れない。

 

メインとなるストーリーは妹のサマンサ(サム)の恋物語だ。彼女はヤンチャな感じの同性の友人と恋に落ちて、えーと、試練があり、えーと、逃避行する。それだけ。文章にするとこれだけのことだが、それをいくつもの紙類や音楽テープ、それにサムの日記(これは肉声で再生される)などのインタラクトで現実感を膨らませていく。特に手紙はいい味を出している(見るためには日本語文字を消さなくてはいけなくて面倒くさいが)。

様々な手紙が家中に散らばっている。

それを拾って読んでいくゲームなのだ。

メインであるサム達の手紙のうちのいくつかはルーズリーフに手書きで書かれ、学生のやりとりをこっそりと覗き見たような気持ちにさせる。個性や感情を、ひいては存在を感じさせる手書き文字。

そのリアリティ(の演出)がこのゲームの根幹で、何というか、それで全部という感じだった。インディーゲームだし、やりたいことがあって、やって、それで全部だ!というのは潔いともいえる。だが、そんなに評価されるほどかね(gone homeはいくつも賞を取っている)。

 

悪い所をグダグダ書くのは今回の主眼ではないので、fire watchとの比較の話。

どちらもウォーキングシュミレータと呼ばれる一人称によるアドベンチャーで、マップ内で何かを見て、また何かを探していく。その中で物語が展開していく。

fire watchとの大きな違いの1つは、プレイヤーである人物に大きな背景があるかどうかだ。

fire watchは冒頭の選択肢によってキャラクターの人生を背負わせようとする。どう選択しても同じような結末(避けられぬ悲劇)になるのだが、選択するという行為によってプレイヤーは多かれ少なかれその悲劇を背負ってしまう。それがウォーキングシュミレータという(リスクとリターンなどの古典的な意味での)ゲーム性が薄い、ただ歩き、見るという行為に、あるいはその空白に、背後から滲み出すようにニュアンスが与えられていく。私はそれがとても機能していたと考えるのだ。そしてプレイヤーはその物語をプレイしていく。背後にある物語が今の物語と関係を持ち、ある種の深みを与えられる。

さて、gone homeだが、こちらはどうかというと、プレイヤーの視点にキャラクター(一家の長女)は与えられているものの、それが大きく反映される事はない。むしろ冒頭のホラー的な感触を強めるためにあえて無色のままにしてあるようですらある。あるいは探索をして物語を読み込んでいくというメカニズムをシンプルに信じているのかもしれない(つまりはストーリーを語るのが主であり、視点との関係は問題としない)。

そしてそれは成功しているのか?

私の考えでは成功していない。端的にいって、探索をして断片的な物語を読み込むというゲームプレイと、妹の逃避行という物語に親和的な物を感じることができない。好意的に見れば、NPCとのインタラクトを持たないことが多いウォーキングシュミレータというジャンルにおいて、既にここにいない妹の物語という部分はシンクロしているかのように見えるが、断片を拾い集めていくというプレイの根幹に必然性を感じられない。何というか、バラバラにされた絵本を拾い集めているような気分だ。設定資料も用意してある。読んでくれたまえ。という感じ。何故拾い集める必要がある?

拾い集める事に意味を見出すのならば、物語の主体をプレイヤーに与えるのは必然ではなかろうか?断片的であるという時制を活かすには、複数の時制を与えるのがシンプルな解決方法だからだ。そしてそれは、プレイヤーに見捨てた妻と美しく怪しい山を与えるという形でfire watchが行なっている事でもある。

だから、fire watchのような形態とgone homeのような形態では、よりウォーキングシュミレータに適しているのはやはり前者なのだと私には思える。

もし後者のやり方で成功しようと考えるならば、その物語自体の質が問われるだろう。(何のためになのかは知らないが)バラバラになった本なのだから、比較対象は小説や映画にもなるだろう。そしてそれに耐えうるものだったかというと、はっきりとNOといえる。にもかかわらず、gone homeはストーリーテリングにおいて国際的に大きな評価を受けている。

これはゲームというメディアの良い点であり、ウンコな点だ。何故なら歴史的に見ればまだハイハイが終わった程度のこの新参メディアは、未だ発展途中もいいところなのだ。現実的な世界の投影を行ったというそれだけで、それが新しい表現であるように感じられるくらい未発達なのだ。

でも悲しいかな、私もその感覚は分かる。

でも幸福な事だ。ゲームというメディアはまだまだやっていない事がたくさんあるのだ。目眩がするくらい。

 

さて、あなたは気づいているかもしれないが、これはアンフェアな比較だ。私も分かっている。fire watchはgone homeよりも3年も後発のゲームなのだ。当然gone home(あるいは近似的なゲーム)を研究して作った可能性は高い。

最初は、なるほどこの欠点を次作でこう補ったのだな、みたいな感じで書こうと思ってたのだけど、へへへ、デベロッパーが違ったんですよ。

となればそれは「takoma 」で行うべきだろうし、それやってねーし。

でも書きたかったんですぅ。

許してくらはい。

シュガー・ラッシュ:オンライン ignの記事に寄せて

少し前に、ignジャパンでシュガーラッシュオンラインのプリンセスの定義の扱いに言及する記事が出ていて、なかなか楽しく読んだのだけれど、

https://jp.ign.com/wreck-it-ralph-2/31862/feature/

やっと映画の方を見たので、感想。

 

以下映画自体のネタバレも含みます。映画も、記事も把握している前提で書いてます。

 

例のディズニープリンセス一同登場のシーンは流石にちょっとずるい。

まず画面の豪華さ。人数が多くてちょっとゴタゴタしてるけれども、まあ華やかなだ。カラフルなのだ。服の色、髪の色、肌の色。今までプリンセス像を少しづつ刷新してきたのがよく分かる。

自虐じみたネタもディズニーくらい大きくてパブリッシュイメージが強い所がやるとつい笑ってしまう。シンデレラがビール瓶よろしくガラスの靴を割って構えるのは好きだ。スタジオの違いをつつくのも、プリンセスからの発言だと妙に笑いを誘う所がある。

プリンセス達の控え室で、ヴェネロペ(柔らかほっぺのドライバー)に例の質問が与えられる。

「大きくて強い男性が現れたことで、あなたの問題がすっかり解決したってみんなが思ってる?」

である。もしそうなら、あなたもプリンセスだ、というのだ。

もちろんこれは自虐的なユーモアであると同時に、映画のテーマと響き合っているのだが、正直なところ、ディズニー以外ではあまり機能しないだろうなと思った。

 

まず、映画自体のテーマは「自立して、自分自身を生きること」とか、そんな普遍的なものなのだが、例のプリンセス達のシーンの印象がすごく強いのと、実際ヴェネロペは女の子でラルフはオッサンなので、「女性の自立」がテーマであるような印象を受ける。

それはそれでいいのだが、何というか、今更?という感じがするのだ。日本だったらまだテーマとして扱う意味もあるかもしれないが、ディズニーはグローバルな企業だし、もうとっくの昔に(ディズニーでもそれ以外の会社の映画でも)扱ったテーマで手垢が付いてる印象なのだ。だから正確にいうなら、今更?というよりは、また?とか、再録?かもしれない。

でも、ディズニーはビッグカンパニーとして時代の価値観を反映(あるいは迎合)しなければならないのに、未だそのテーマを扱う必要があるし、例の「大きくて強い男性が現れたことで、あなたの問題がすっかり解決したってみんなが思ってる?」と問う意味があるのだ。

何故ならプリンセスである事はおよそ自立とは(真逆とは言わないまでも)違った方向のイメージを孕むものだからだ。王子に求婚されてハッピーエンドを迎えたプリンセスも多い。だからディズニーとしては、彼女達の魅力は王子達とは関係ないんですとエクスキューズする必要が出てくる。それも未だビジネス上有効な、旧来のプリンセス(そこには王子様からの求婚も含まれている)への憧れを守ったまま。

 

ignの記事では「笑いに包んで批判する道を、『シュガー・ラッシュ:オンライン』では選んだのだろう。それは、自らがかけた呪いを、悪しき魔法を、自らの手で解いているかのようにも見える。」と書き、「プリンセスに憧れることは決して無意味でもないことを、観客に告げている」と文章としては美しい着地をするのだが、私にはいささか贔屓目が過ぎるように感じる。

ディズニーは旧来のプリンセスのイメージを捨てたわけでもないのだから。だから、ヴェネロペは「それってムカつくよね!」ながら、必要とあらば大砲の花火の中、気持ち良さそうにミュージカルを始めるのだ。それにプリンセス達も、それが「本物のプリンセス!」と声を合わせるが、ラプンツェル以外は「それってムカついて」いるかはちょっと微妙で、単なる仲間の承認のように見える。

だから、まだそれは空気を読んだジョーク以上にものにはなっていないと思う。

 

もしかしたら、あなたはただのジョークにグダグダ言いやがってと思うかもしれない。その気持ちもわかる。だが、今この時代にあっては、エクスキューズ抜きにはディズニープリンセスは、特に古株は扱いづらいのも事実なのだ。

ディズニーが古株プリンセスを捨てるわけもないのだから、彼女達が出るたびに何らかのユーモアを使ったエクスキューズや、プリンセスの定義を若干スライドさせる事は割とあり得る話だと思う。

いや、だから何だよと言われたら、それもそうなんだけれども。

fire watchと空白のプレイ時間

fire watchをプレイしてて最も感銘を受けたのは、最初の1時間だ。

 

病気になってしまった妻を見捨て、その逃避として、一夏の間、森を見つめる仕事をする。その選択を背負うことから、ゲームプレイは始まる。

冒頭は文章によるあらすじと選択、そして現在の時制の短いプレイアブルな移動、そしてまた文章による選択。そしてプレイヤーは妻を見捨てることになる。

妻を見捨てるまでの選択肢に大した意味はなく、それは背負わせる為のギミックに過ぎない。でも、ギミックに過ぎないからなんだというのか?選択はそこにあり、逃れる事のできない結末として罪は(あるいは罪悪感は)プレイヤーの記憶に残る。

fire watch

乾いた夏季の森で、火災の発生を見張るのが仕事なのだ。

トゥーンの処理が行われた森は美しい。プレイヤーは隣の区域のウォッチャーのデリラとトランシーバーでやり取りをしながら、移動して、何かを見て、また移動する。ウォーキングシュミレーターというらしいのだが、移動して、何かを見て、また移動するゲームなのだ。

firewatchで感銘を受けたのは移動している時だ。それも出来事が終わった後の帰り道だ。

時に、日常を埋め尽くす仕事に救われるように、プレイヤーも何かに遭遇している間、一時的にせよ、見捨てた妻の事を忘れている。それが、殆ど空白のプレイ時間と言っていいような、特に意味のない、帰り道を歩いている時にフラッシュバックして来るのだ。あの選択は正しかったのか?と。こんなことをしている場合ではないのではないか?と。そのチラつく現実の感触がやたらリアルで、鮮明で、私は何というか、落ち着かない気持ちになった。主人公のヘンリーの気持ちが、喪失感や、絶望感や、感情的な空白がありありとわかるような気がした。ゲームでこういう事って正直経験した事がない。にわかゲーマーである私が知らないだけで、ずっと前からこのレベルだったのかもしれないけれども。

こういう仕掛けはとてもプレイヤーに依存している。その空白のプレイ時間の間に何を感じるかはプレイヤーによってだいぶ違うだろうし(意図された空白なのは間違いないのではあるが)、それによって評価も変わってしまうだろう。しかも、こういった場合、低く評した事が間違っているとも言えない。

そういう受け手に任せる部分、読み取る部分というのは文学などにおいては当然のものではあるのだが、ゲームもそういう所まで来たのだなと思ったのだ。これはインディーゲームだから冒険できるとかいうことではないと思う。

レイモンド・カーヴァーの小説のような感触だなと思った。疲れた労働者の文学。乾いたアメリカの文学。

 

というのが前半で、後半はサスペンス的なツイストが始まる。謎の組織?盗聴?怪しげなフェンス、施設!

物語は急転し、気味の悪い方向へ向かう。嫌な予感が背中に張り付いてくる。

でも、最初に感じたような、ゲームによって何かを物語ることの可能性はすっかり消えてしまう(とはいえ、とても引き込まれはしたのだが)。ヘンリーの空白はサスペンスに埋められてしまう。

 

レイモンド・カーヴァーの短編の中で最も優れている(と私が考える)もののいくつかは、その核心となる部分で、奇跡を思わすような、魂の邂逅とでも呼びたいような、でも我々の延長にあるような、そんな瞬間がやってくるのだ。

fire watchは、ゲームもいずれはそんな風に物語ことも可能ではないかと思わせるところがあった。firewatch自身にはまだなかったけれども。それでも。

 

クリアから何日か経ったが、未だにあの森で開け放したままの収納箱が気になっている。ヘンリー君は収納箱に付いていたダイアルの鍵を開けた後、鍵を地面に落としてそのままにするのだ。気になる。

 

同じデベロッパーのgone homeも買ってしまった。近いうちにやるつもり。

眠りの魔獣

ある種のラジオ放送はどうしようもなく私を眠りに連れていく。布団の中でその音声を耳にするや否や、ほとんどノータイムで眠ってしまう。そういう条件付きでなら、かの野比のび太閣下とも張り合うことができるのではないかというくらいだ。意識を失うと表現することさえ可能だろう。

私が眠ってしまう自覚がある放送は、2つ。

1つは「伊集院光深夜の馬鹿力」である。そう、現ラジオ界の王様、伊集院光深夜の馬鹿力である。

私が1番好きなのは、ど頭、「今週気づいたこと」なのだが、もう随分たどり着けた記憶がない。

例のオープニングジングル。ブゥーン!「レーディスアンジェルメン」(ニャー)(アー)(……パチパチパチ)「カモ、カモ」「カモォーン!(カモーン)」プーパラポプーパッポプーポッポ「カモーン(ンンン)」トルタトルタ、トゥンティントォーン!、…ズン、ジャァアンク!、ビィー!ヴォー!ウィー!!

で、いうところの、ジャァアンク!前には大概眠っている。

凄いとは思わないか?

月曜深夜にコレを聞きたいがために起き続けて、30分前からラジコを立ち上げて、なおかつ、開始まで起きていて、始まって30秒後にはもう寝ているのだ。しかも私は深夜の馬鹿力が好きで、リアルタイムで聞きたいからそうしているのに、伊集院光が話し出す前に寝ているのだ。

もはやこれは病気なのでは?

もう1つは、IGNジャパンというゲーム情報サイトのYouTube動画の「喋りすぎゲーマー」というシリーズだ。これはIGNのライター兼編集が何人か集まって色んなテーマでゲームについて座談会をするというもので、動画ではあるが実質ラジオみたいなものだ。

オープニングお決まりの挨拶に「ヘーイミナサーン、コニチワー、シャベリスギー、ゲーマーへー、ヨウコソー」というのがあるのだが、これの挨拶中に寝てしまう。よしんば挨拶を越えたとしても、次の話題の前振りをしてる間にほぼ確定で寝てしまう。毎週火曜を割りに楽しみしているのだが、私の脳の睡眠を司る箇所(ググったら、大脳辺縁系っていうんだって。なんだか壁画に書かれた架空の伝説的動物のような語感がある。ありません?きっと象のような長い鼻と、コウモリのような翼があって、樹海のようにけむくじゃら。クジラのようにデカイ。たぶん。)は私の楽しみな気持ちは一切無視して沼のような眠りの中に容赦なく引きずりこむのだ。

私は気づいたのだが、この2つの放送にはいくつかの共通点がある。

おそらく私の眠りの魔獣はこのいくつかの共通点を目印にして、その圧倒的な吸引力で意識を吸いとってしまうのだ。

1つ。定番のオープニングがある。オープニングの最中に眠くなるのはそれ自体がトリガーである可能性がある。

2つ。楽しみにはしているが、聞き逃しても別に困りはしない。悔しくもない。人生感を揺さぶるような強い影響は起きない(と思っている)。こちらに集中力を要請しない。気楽。

3つ。完成された作品ではなく、即興的な「話」である。音声情報なので目を瞑ったまま楽しめる。

 

まとめると、週一くらいでやってる気楽な内容のラジオ放送以外の何物でもなく、何の面白みもない(ただのラジオ眠くなるおじさんじゃないか)そのままの結論に至ってしまうが、ちょっと待って欲しい。私の考えが合っていれば、これの要素を含んでいれば、おそらくラジオ放送でなくとも、眠りの魔獣はやって来て、魂を引っ張っていく筈だ。

じゃあ、それは例えば何か?

 

何か?

 

ユリイカ

 

それはピロートークではなかろうか。

世間様では終わった後の男性の冷たさ、態度の豹変を嘆く声が存在するが、あれは実は、眠りの魔獣のせいなのではないか!?放出した男性の内、頭上に魔獣を飼っている人は、意識をチュウチュウ吸われている最中なので、甘いトークをろくに楽しむことが出来ずに眠りに落ちてしまうのだ。それは愛情のなさではなく、単に魔獣の悪魔的行為に過ぎないのだ。

そして、ここが大事なのだが、先程上げた共通点の内3つ目を思い出して欲しい。

「完成された作品ではなく、即興的な「話」である。音声情報なので、目を瞑ったまま楽しめる」

つまり、「話」である事がピロートーク中に眠くなる原因の1つだと考えられる。

もしあなたがピロートーク中に眠る彼氏を嘆く方であるならば、やれ、良かっただの、素敵だっただのと感想やお世辞を言うのではなく、もっとこうしたら良かったのではないかと、ほとんどプロ棋士の試合の後の感想戦じみたピロー議論を展開したら、魔獣は目印を見つけることが出来ずに困ってしまうのではないか?如何か?

如何?

 

 

なんだこの結論は。

実は見切り発車のまま書き始め、「何か?」の後、何も思いつかずに、ひと月が経ってしまったので、もう切り上げることにしたのです。

すいません。撤退します。失礼。

負のおじさんスパイラル

チャオ!こちらおっさん少女よ。

この間の宣言通り、特に理由も無く復活を果たしたわ。ゲームの敵キャラみたいにいくらだって復活するの。タフネスが売りなの。画面端から無限にポップするの。

 

嘘なの。タフネスが売りというのは嘘。

最近めっきりおっさんボディは弱り初めて、アリナミンの広告とか観ると「飲んだ方が良いのでは」とか思ってしまう。はあー、つらい。

何が辛いって、私の乙女ハートが、おっさんの体のつらさに引っ張られて、若干陰ってしまうのがつらいのよ。スタバのクソ甘キャラメルマキアート飲んでも、抹茶フラペチーノ飲んでも心がキャッキャしないことがある。無風。(補足。あの、読み直して思ったんだけれども、念のため言っとくけど、普段ならスタバにキャッキャしてるのに、という意味ではないからね?スタバというだけでキャッキャする程安い乙女ハートじゃないから。普段は帰りのコンビニ以外では甘いものを買わないようにしてるの。主に健康面で。だから昼間の甘味はご褒美なの。なんか勘違いされそうで急に不安になってしまった。不安性おじさんなの)

ジムでも通おうかしら?

私の聞いたところでは、ジムで体を鍛えるのは、もちろん体を健康に保つためなのだけど、心の健康のためになるっていうのよ。所詮心などという概念は気休め、幻。脳の一瞬のパルスに過ぎない心など身体の一部に過ぎない。体が元気なら当然心も元気!というわけね。体がイッた時、心もイッている。

唯!物!論!

そんな風に言われるとなんとなく反論したくなるけど(なんかムカツクじゃない。分かった風で)、心が体に引っ張られるのはまあ、1つの事実ね。

最近はどんどんおじさんが進行してきていて、ついつい自虐的になってしまう。全てのおじさんが自虐的というわけでもないのだろうけど、私はちょっとそういうところがある。だっておじさんってビジュアルからしてしんどいわ。すり減っていく若さ、毛量。皮膚はよれ、シミもできる。昔に比べたら全体的に(何もかもがよ!)垂れていっている。悲しい。ついでに臭い。自覚はあるの。地獄。

そうすると、服も地味になって、背中も丸まり、気持ちも落ち込む。そうしたら活動量も減り、消極的になって隅っこが落ち着くようになる。

消極的になると背中はさらに曲面を作り、ほとんどダンゴムシのような気持ち。すると……

これが「負のおじさんスパイラル」。

私は入り始めているのかもしれない。「負のおじさんスパイラル」に。これを断ち切るにはどうすればいいのか?

例えばジムはどうかなと思うわけ。健康な心は健康な肉体に宿るだったかしらん?つまりはそういうこと。

でもねえ。なんかねえ。なかなか踏ん切りがつかないのよ。

ほら、ジムって、ムキムキの方達が上半身をさらけ出しながら闊歩しているイメージなのよ。上半身裸のムキムキがタオルを肩からかけて「タムラさん。二頭筋バルク(バルクってなんだ?)してるねぇ。いつもながらスゲェなあ。見てくれよ。俺なんてさ。この程度さ(ムキッ)(ニコッ)」「何言ってんだシンちゃん。お前の広背筋はみんなの憧れだぞ。俺にはそのバルク(バルクってなんだ?)はまだねえ。いずれは越えるがな!ガッハッハ。(ムキッ)」そして微笑み合う二人は、タイミング合わせて同時にムキッ!

みたいなイメージ。なんだか怖いの。

そう偏見ね。偏見。でも怖いの!上半身裸でバルクバルク言ってる人たちがいそうな所は怖いの!隅っこが落ち着くの!

ダメ。

それじゃダメ。おっさん少女ダメ。それじゃ。そのままじゃ「負のおじさんスパイラル」がどんどん進行してしまうわ。そのままではいずれスパイラルは地面を穿ち、穴を掘ってモグラ化してしまうわ。落ち着きそうではあるけど。でもそれじゃダメなの。

でも怖い!

ダメよ。偏見は!

怖い!

はあー……スタバ行こ。

 

世の中にはきっちり保っているおじさんはそれなりいる。自分がおじさんになるまではそれは当然と思ってた。でも実は違うのかもね。あれは相当なコストを支払って、頑張って保っているのかもしれない。最近そのことに気づいた。

やるじゃんその他のおじさん。

とりあえず今日はストロベリーケーキのやつで心を保つ。そんな休日。

 

 

「過去の映画の記憶(過去)」を10年先から眺める事

最近、とある個人ブログを覗いているのである。

 

情報の断片を集めると、書いているのはおそらく50過ぎの男性だ。

サッカーが好きで、代表戦や、セリエAの試合などの話題が度々ある。だが不思議とチャンピオンズリーグの話はない。頑固な職人みたいな強いこだわりがあるのかもしれない。リーグ戦がサッカーの本質だ!みたいなね。日本戦は別腹。

日常の生活の話題は少ないが、稀に写真と共に、短いおまけのような文章が乗ることもある。雨が降ったとか、電車が遅れたとか、その程度だ。

そしてそれ以外の、およそ8割9割を占めるのが映画についてのエントリーだ。ほとんど映画ブログといっていいだろう。

映画に関しては、果たして好きという言葉を当てはめるのが正しいのかよく分からない。側からみると、それはなんだか信仰のようなものに見える。

その信仰は学生の頃に始まったようで、青年期を経て、中年期を超え、初老に達しようかというのにまだ続いている。敬虔な信者として、毎週末、あるいはもっと頻繁に映画館のミサに出席している。

そして、その日見た映画についてのエントリーを書き上げる。

私はその映画のエントリーを過去からほじくり返して読んでいるのだ。

過去から、というのは、それはもう既に停止したブログだからだ。なんだか廃墟に忍びこんで、生活の跡を眺めているような気持ちがする。

ブログは2000年代の頭に始まり、週に2、3回のエントリーを続け、2010年の冬に電池が切れたみたいにぱったりと更新を辞めている。

 

彼の映画について書いた文章が好きだ。

一番の美点は評論しないことだ。彼がやっていることは、彼が今まで見てきた映画の知識と、その日見てきた映画を繋ぎ、見えた事柄ついて書くだけなのだ。よほど気に入った時には「傑作」だの「観るべき」といった言葉も出てしまうが、基本的には映画を断じない。この監督を貫くテーマは何とかで、だからこの映画もーとか書いたりしない。これは社会情勢を象徴していて、だから登場人物のこの行動はーとか書かない。せいぜいが、「もし、これが社会の気分を反映しているなら」とか、そんなところだ。奥ゆかしいのだ。ましてや身勝手に点数を付けるなんてまずない。

自分に見えたスクリーンの光景を文章に変えていくだけなのだ。

文章は視覚的で感覚的だ。それに上手い。上手いのにプロっぽさがないのは、フォーマットを気にせず書きたいように書いていて、しかも無理に結論づけないからだろう。2、3行短い気持ちだけの感想を書いて終わってしまうこともある。あまり読み手を意識しているように見えない。川沿いで歌の練習でもしているみたいに、好きなだけ歌って満足したらギターケースを担いでさっさと帰ってしまう。

でも聴かせるのだ。

 

過去の映画の記憶と、昨日今日見たスクリーンの光が重なる。フィルムを重ねるみたいに。その美しさ、甘美さ、重さ。追体験というほどのことではないにしろ、読んでいてその幸せを少し感じるのだ。

大量に見てきた映画の記憶が、今見ている映画を彩ること。

読んでいると、私もそんなものが書いてみたくなってしまう。でもそれは無理だ。私は映画の何者でも無いからだ。半可通にすらなれない。いや、半可通…にはなれるか。

なんにしろ無理だ。

だから遠巻きに、10年も先から眺めるだけなのだ。

 

 

彼の文章を読むのは楽しいのだが、過去の映画の感想をひたすらに掘り返しているのには別に理由があって、それは、 今アマゾンのプライムビデオで無料公開している映画と被っているものがいくつもあるからなのだ。

ちょうど無料公開するのに適したタイムラグなのかもしれない。

そして私はプライムで過去の映画を見て、その当時リアルタイムで劇場で見た感想を読む。

これが最近の楽しみなのだ。

最近気づいたのだが、私は評論というものにあまり興味を持てない。私が興味があるのは、感想、気持ち、そういったものだ。泡みたいに浮かんで消えるそれが、出来れば綺麗な色や形をしていたら嬉しい。見ていて楽しい。それだけなのだ。

 

すでに止まってしまったブログを読むのは少し物悲しいところがある。そのブログを気に入ってしまったら尚更だ。変化するものは自動更新の広告だけ。でも、遺跡じゃないのだから、きっとまだ本人は生きているだろう。もし会うことがあれば聞いてみたいような気もする。「あんな素敵なブログを書く気持ちはどんなものでしたか?」とか「そこにあった熱はどこに行ったのですか?」とか。