あの「ギュン!」について

時々思い返したように文章を書きたい気持ちになる。

昔には小説を書きたいのではないかと勘違いをしたこともあるが、どうもそういうわけでもなく、ただ文章が書きたいのだと最近は思うのだ。

別に小説ではダメという事でもなく、結局のところ、文章であれば何でもいいのではないかと思う。

文章を書くというのは、それだけでなかなか楽しい行いなのだ。

そうでなければ、文字通り誰も読まないブログなど書ける訳がない。

 

どんなところが楽しいのか?

私が思うに、意味が生まれる瞬間の「ギュン!」って感じだ。

頭の中で漠然と文字にしようと考えている事柄。それは風景だったり、感情だったり、ある種の直感だったり、なんだっていいのだが、それらを文字に起こす時、どうしようもなく飛躍が起きる。

曖昧模糊としたそれを、「よろしくお願いします」とばかりに言葉に託す。

頭の中にあるイメージなり概念が、仮初の姿としての言葉を与えられるというのは、断絶した時空を乗り越えるような無理がある。

そして、言葉は平然としたまま、当然と言わんばかりに、私とは無関係と言っていいほど身勝手に意味を帯びる。

その飛躍。その「ギュン!」。

でも私は、その飛躍をまるで自分の一部であるように感じる。まるでそれが内的な飛躍で、一定の妥当性があるように誤謬する。

 

それから、右手をバタバタ、左手をバタバタしてバランスをとって、軟着陸させる。

 

それから、昔おしめを替えてやった甥っ子の成人式を見るみたいな、心配と誇らしさと、そうはいっても我が子ではない寂しさを感じながら自立したことを認める(もっと背筋を伸ばして欲しいなどと思いながら)。

 

そしてテキストは生まれる。

 

何か「ギュン!」の先も書いてしまったが、まあ一連の操作が好きなのも事実だし楽しい。

 

 

世間には、言葉と自分をほとんど同一視している人もいる。

その人達はきっと無邪気にも言葉について考えたことがないか、言葉との間に本当に距離のない天才なのだろう。

羨ましいような羨ましくないようなところだ。

彼らはきっとこの「ギュン!」を感じたことはないだろう。

絵に描いた動物が勝手に動き出すような奇跡的躍動、それと関係を持てる、関係を持っていると誤謬できる幸福を知らないのだ。