ウォーキングシュミレータによるストーリーテリング考察 その1

ウォーキングシュミレータ雑感。

 

ファイアウォッチ、ゴーンホーム、フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと、と3つほどこのジャンルのゲームをやったので、何かしらの感想を書いても良かろうと自分に許可を出したので書いてみます。

出来るだけ分かったような面をしないように気をつけながら。

 

随分と前からゲームというのは、映画への憧れが推進力の1つとなっている部分があったと思う。

ビジュアルの表現力と媒体の容量が大きくなっていくにつれて、操作の出来ないカットシーン(昔はムービーと呼ばれていたと思う。そのまんまじゃないか)が増え、まるでゲームの上位に存在するかのように、一種プレイに対するご褒美として配置されていた。

シネマティックなになにみたいな宣伝文句も普通に受け入れられてきた。

現役の最も評価されているクリエイターにも映画に対する憧れと情念をむき出しにしている人がいる。

 

映画も、昔は2級の芸術として(まだサブカルって言葉は生きているのかな?)扱われていたと聞くし、そういった意味ではゲームというのもこれから「所詮ゲーム、所詮遊び」というところから脱していきたいジャンルでもあるのだから、見事表現と娯楽の狭間で一定の地位を手に入れた、映画という年の近い先輩に憧れるのは必然だったともいえるかもしれない。

 

だが私は昔から映画的なゲームと呼ばれるものがあまり好きではなかった。

そもそも映画とゲームって作りがだいぶ違う。

まず、単純に映画は観賞するもので、ゲームはプレイするものだ。前者はその表現を楽しむもので、後者は行為の中に喜びを見つけるものだ。

それに映画は時間芸術だが、ゲームはそうじゃない。始めの15分に伏線を敷いていても、客の前にその着地が現れるのは毎回60分後とは限らない。人によっては次の日だし、場合によっては1ヶ月後だ。プレイの仕方によっては、そもそも認知さえ(あるいは登場さえ)しない。それらを配置することの意味合いが変わってくる。程度の問題はあるにしても時間的な繊細な配置というのは意味をなさなくなる。

穿った見方をすれば時間芸術という意味では、いわゆる「映画的」なゲームよりも、プラットフォーマーシューティングゲーム(縦シューとか横シューのことね)の方が近いとさえ思う。

 

 

何言ってんだ。分かったようなこと言いやがって。

そもそも映画的ゲームってなんだよ。具体的に名前と構成要素をあげやがれ。この豚野郎!

と思うのも当然だし、ここで私の定義を書いておこうと思う。

あくまで私の定義だが。

まずストーリードリブンであり、また、その提示がカットシーンがメインであること。

そしてそのカットシーンを繋ぐものとしてゲームプレイが存在していること。

定義というほどではないものの、多くの場合その「大迫力!」な映像が売りとなっている。

以上。

大雑把に過ぎる?その通りだと思う。

しかも、私は、これが映画的なゲームで、それは違うなどと明確に分けることができない。何故かというと、それはゲームを構成するある要素の濃さの問題であるからだ。映画的と思わないゲームでも同じ構造のものはいくらでもあるのだ。

だから私はグラデーションの中で「より映画的なゲームである」と「感じる」としか言いようがないのだ。

私が「映画的なゲーム」と言う時、「本当は映画になりたかったゲーム」というニュアンスが存在している。だから申し訳ないが、いくらか侮蔑的な意味合いが入り込むように思う。意識的に侮蔑として使っているわけでもないのだが。

それでも我慢できるならもう少しお付き合い願いたい。

 

さて本題。

ウォーキングシュミレータ雑感なのだ。本題は。

先に言ってしまえば、このウォーキングシュミレータというジャンルは、小説に親和性のあるジャンルではなかろうかと思うのだ。

さらに言ってしまえば、そもそもゲームが目指すべき物語の構造、あるいは語ることのできる物語の種類は、映画よりはむしろ小説に近いのだと。そう思うのだ。

 

上に書いたように、私はもともと「映画的なゲーム」というものに否定的な人間である。にも関わらず、この「小説に親和性のあるゲーム」であるところのウォーキングシュミレータというジャンルには好意的な感触を持っている。

それらを、「小説になりたかったゲーム」だとは思わない。

つまるところ、ウォーキングシュミレータによるストーリーテリングはゲームによって行われていると考えるからだ。そして「親和性がある」から小説的な物語を引き込むことができるような可能性を感じるのだ。

 

ここでいいたい小説的な物語とは(学的な話じゃないよ。このブログのこのエントリーの中でいう小説的な物語)何か?どういった特徴があるのか?

それを説明すると、視点の話になる。視点の位置の話がしたいのだ。

ざっくりいうと、ウォーキングシュミレータと小説は一人称の物語であり、映画は三人称の物語だ。という話に帰着する。

ああ、反論が聞こえる。

でも我慢して、いったん持論を聞いてほしい。

 

まず、一番本筋から遠い映画の話をしよう。

映画は三人称?そんなことないぞ。主観カメラによる映画だっていっぱいあるぞ。ドキュメンタリ映画、モキュメンタリ映画筆頭にいっぱいあるじゃないか。そう思ったのはないですか?

それはそうだ。

でもそれらのほとんどは映画が三人称であることを前提にした、リアリティを膨らませるギミックなのだ。手ブレさせるカメラワークもその一種だ。

通常意識することの少ない観察者(監督やカメラマン、客席、あるいは登場人物)の視点を想起させることで、狙った感触を生み出そうするテクニックなのだ。

でもそれは、外部に存在する物語をフィルムに定着させる行為であって通常の映画と変わらない。いうなれば三人称の物語なのだ。

その意味では「カメラ」が登場人物の眼の位置にあろうが、神の眼の位置にあろうが問題ではない。

あなたが素晴らしく妥協的で優しい人であれば、この前提は受け入れてくれるだろう。

 

では次だ。

小説は一人称しかない。

これはもうちょっと反論が増えそうだ。

でも事実そうなのだ。もちろん、ある見方においては、という限定の下の話ではあるのだが。

いささか込み入った話になる。

 

2つの側面がある。

まず1つめ。

書き手の側面。

物語うんぬんの前に文章というものを考えて欲しい。

あなたに書きたいナニガシがある時、全てを文章にすることができるだろうか?感情でも、人物でも、出来事でもいい。あなたが書きたいある感情があったとして、それを、「悲しみ」なり「怒り」なり「喜び」なりといった言葉で完全に表せたと思えるだろうか?

そんなことはありえない。言葉の隙間から溢れるものがあるはずだ。

三人称はいわば神の視点なのだが、文章というものは本質的に神の視点にはなりえない。

書き手の言葉の網に残った意味に、文体や意味の流れといった技術を使って、表面的な(しかし本質的な)選別を行うのだ。これはどうあっても外部的な装置ではありえない。

しかし急にポエミーになったな。

 

そして2つめ。

読み手の話。

上記の展開の逆が起こる。本やモニターなどに書きつけられた文字は自分の外にある。けれども、読むという行為は、その文字列を一度読み手の中で組み立てる必要がある。あなたはあなたの中にある辞書を引き引き、そこにある文章を翻訳していくことになる。そこでは「悲しみ」はあなたの「悲しみ」であり、「喜び」はあなたの「喜び」なのだ。

そして、私の「悲しみ」とあなたの「悲しみ」は同じものではありえない。それは私の中にある辞書とあなたの中にある辞書は別物だからだ。

誰もが誰かと会話のすれ違いを経験したことがあるだろう。それは相手の、またはあなたの頭の回転が遅い(場合もあるが)せいではなく、一つの単語、センテンス、文脈、そこから想起される言葉の意味が人によって違うからだ。それは正しいとか間違ってるとは別の次元の話だ。

 

ふう。長くなった。

私が小説は一人称しかないというのは、そういう意味だ。

ただのこじつけだと思う?

そうかも。一人称という言葉が適当でない可能性はある。でも、呼び方はさておき私がこの一連の文章でいいたいのはこのことなのだ。視点の位置の問題なのだ。

 

さてさて、本題。

ウォーキングシュミレータの話だ(前置き長すぎ!)。

 

ここからは通常の意味での一人称の話になる。つまりFPS的な、ファーストパーソンな視覚の話になる。身勝手ですまない。

と、いうのも、今までの話は映画と小説の語りの「違い」の話で、ここからは主観視点によるゲームプレイとストーリーテリングの親和性の話になるからだ。

そして最終的には小説とウォーキングシュミレータの親和性に繋がるのだ。

 

だから、ここからはウォーキングシュミレータの視点とストーリーテリングの話になる。一般的な意味においての。

 

そものそも、ウォーキングシュミレータと一人称の親和性は当然なのだろうか?ほら、ウォーキングシュミレータってだいたい一人称だ。

でも当然だとまで言い切ることはできないのではなかろうか。

その世界の中を歩き、見て回るゲームと主観視点は相性が良い。それは単純な事実だが、今現行のウォーキングシュミレータのほとんどが主観視点を選んでいるのは、その出自が理由である気がする。そのせいで主観視点でなければウォーキングシュミレータと呼ばれないのではなかろうか。

一番最初にあげた3つのゲームのうち、ゲームプレイを通じて主観視点であることの必然性を感じたのはファイアウォッチだけだった(勘違いして欲しくないのだが、ゲームの良し悪しの話ではない。ファイアウォッチが一番好きなのは事実だけども)。

 

ゴーンホームは家の中のオブジェクトを読むことで物語られる。筋となる部分は回想のようなの手紙の朗読。

環境的な描写部分(雨の夜。散らかった部屋、学校ノートの切り端の手書き文字。バスルームの髪染めなど)は存在するが、基本的には言語によって行われる。

言語的に行われるストーリーテリングとは何か?ゲームプレイと呼べるのか?

いや、ゲームプレイとは呼べる。

呼べるんだが、主観視点で歩き回ることとの親和性は別ではないか?

その文章たちを読むのにプレイヤーは家の中を歩き回る必要がある。

狙い所として考えられるのは、テキストが散らばっている(空間に配置されている)ことで階層を生むことだ(回想の階層。へへへ)。

誰もいない屋敷を探索する事と、妹の回想を始めとしたオブジェクトの情報を交互に与えることで、「見る私」をハブとして複数の情報が距離を持って与えられる。その振幅の中で、メインの妹の物語は複数の角度を持って深さを与えられる。とか?理屈としては。

でも、その効果はあまり機能してないと思うんやな。少なくともウォーキングシュミレータのストーリーテリングとしては。

何故か?

私の考え。

1つには、テキストによるストーリーテリングである事によって、それが外部化されてしまう為。本来なら内面化(小説のように)するはずのテキストは、ゲームプレイが挟まる事で、誰かに語られた言葉になってしまう。この辺の機序は言語化しづらいが、本来ゲームプレイは、出来事と出会うはずなのに、代わりにテキストに出会ってしまうと、プレイヤーは一度テキストの主体に寄り添ってしまう。その宙吊りが主観のプレイングにフィットしないのだ。主観視点のプレイングの肝はその視線と同化することにあることに異論がある人は殆どいないと思う。

2つ目には主体の不在。

物語の観察者は長期の旅行から帰った長女である。主観視点のストーリーテリングという側面を考えれば、プレイヤーはその長女とシンクロする必要があるが、長女については、ゲーム中ほとんど何も語られないに等しいのだ。

それどころか、ゲームの導入や途中に、物語に引き込む導線としてホラーテイストを作っており、(それに関しては一定の効果はあるように思うが)、そのために長女を不可視化させるように仕向けるのだ。プレイヤーはスタート時、自分を家の者だとは考えつつも、途中まで半信半疑なまま家捜しすることになる。

長期の旅行から引っ越し先に帰るというひねった設定は、情報のないプレイヤーと、家族でありながら情報のない長女を重ねるのに上手くできていると思う。だが、何者であるかまで情報がないと、プレイヤーは観察者に同調することが難しくなる。何故なら謎の人物はそれ自体マクガフィン化してしまい、観察される対象となってしまうからだ。長女の物語を展開していくならそれでも可能だが、メインストーリーは妹にある。ちぐはぐだ。

一人称の物語を「私が見る物語」と言い換えれば、そのズレは明白ではないだろうか?

シンプルにいうなら、このゲームはそもそも妹の話に共感求めている。その上で、「長女(私)を通して読む」ことも要求しない。であるならば主観視点も要求されない。

 

続きまして、フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと。

フィンチ家の特徴は、1つ1つの物語をプレイする対象として読み直そうとすることだと思う。意味をなさないようなしょうもないのもあるが、基本的には、それぞれの人物の死の核となるイメージを、プレイアブルなものとして置き換える。

私は物語=プレイという構造を高く評価する者である。

特にサーモン缶の工場勤めの兄のパートは素晴らしく、褒めちぎりたい気持ちでいっぱいだ。頭がおかしくなりそうなくらい単純な作業に体を取られながら、分裂的に妄想の中に入り込んでいくあの感じ。よくもまあ、あんなにありありと作り出したものだ。

物語=プレイというのは(もう言ってしまうが)、私が考えるゲームに求められる、あるいは最も適していると考えるストーリーテリングなのだ。

ただ、そのいくつかの素晴らしいプレイングを持ってしても、主観視点である事の必然性は感じられない。

1つには、そこで提示されているのが物語ではなくイメージだからだ。物語の集合ではなく、イメージの集合だからだ。おそらくそのせいで結果的にギミック的な何かに着地してしまった。またそのイメージがバラバラで、全体として何か(それはフィンチ家とエディスを繋ぐ鎖でなければ、そういった物語でなければならないはずだ)を提示しているようにも思えなかった。そのためにエディスは関係のない寄り道ばかりしているように見えてしまう。

加えて、エディスの分裂がある。

エディス・フィンチは物語る者だ。

彼女はプレイヤーの前に立っている。プレイヤーと同じ位置にはいないのだ。

にもかかわらず、ゲームの構造を考えれば、エディスは語られる者なのだ。プロットとしては物語りながら、ゲーム体験としては明らかに物語られている。もちろんそういう重層的な構造が弱みだというわけではない。「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」ではストーリー上の必然がある。

ただ、それが私の考えるウォーキングシュミレータによるストーリーテリングの、最も貴重かつ美しい、とても微妙な心持ちを作るのに雑味をもたらすように思えるのだ。

その最も貴重で美しい微妙な心持ちとは何か?

唄う事を許してもらえるなら「世界を体験したかのように感じること」という感じ。

それは小説的な物語との親和性と関係がある。詩との邂逅とか、そういう格好つけたように聞こえる何か。ロマンティックな文学少年少女の憧れ。

 

それはファイアウォッチの話でもうちょっと踏み込めると思うが疲れた。一度ここでキリマル。

続きはいつになるか分からないが、多分今までの分を読んで想像した通り(その浅さや青臭さを含めて)だとおもうので、安心してほしい。

 

続く。