The missing–JJマクフィールドと追憶島とラインによるストーリーテリング
The Missing −JJマクフィールドと追憶島 その1
当然ながらこのゲームは多くの場合、ゲームシステムとテーマの見事な調和について語られることになるだろうし、実際そういう文章も見たし、それは全く正しいことだ。
一見露悪的にさえ感じるグロテスクなゲームプレイは、先に進むにつれて明確な意図を持って語りかけてくる。
破壊され切断された四肢の痛ましいゲームプレイ。だが、それとちょうど同じ分の眩しさでメッセージは光り輝く。ほとんど目をつむりたいほどだ。力強く背中を支える手のようなメッセージ。
なるほど素晴らしい。
正直なところ、全体としては好みではなかったものの、意図する機能、またその成功は確かだろう。
それはそうと、今回書いてみたいのは、メインのゲームシステムについてではなく(巷にいっぱいあるし)、ストーリーテリングに使用されたライン(snsアプリのライン)についてである。
そも、おおよそ人間というものは文章が読み書きされるスペースがあると、本来物語以外の用途で作られたものであっても、物語を書きつけてしまう。私やあなたが書かなくても、スペースがあればいつか誰かが書き込んでしまうのだ。まるで種族単位での本能のように。
手紙は書簡体小説になり、ネット掲示板ではやる夫が語り出し、携帯(ガラケー)小説
が生まれ、Wikipedia文学が生まれ、当然ラインもそこから逃れることはない。
さて、物語に限った話ではないが、表現というのは媒体による制限が存在する。音楽や映画は時制から逃れることはおおよそ不可能だし、文章は概念から離れることはできない。
文章という枠の中でも、長編短編で扱える質、量は変わるし、何に文字が書き込まれるかでも変わる。(木簡?紙?モニター?大きさは?)
前振りが長くなってしまったが、ではラインによる表現はどうなのか?というのがここでのテーマである。
世にチャット小説なるものがある。
形式としてはライン文学(ラインという形式で物語を進行させるもの)といったようなものなのだが、チラチラと読んだが(本当にちょっとだけだが)、正直なところまともに読んでいられるようなものではなかった(個人の感想です)。
何故か?
私が思うに、スマートフォンによる視聴を前提としている形式なので、じっくりとした読み解きを拒絶したスーパーテンポな形式である事。
また、そのせいで、内容は極めてシンプルになり、1ネタを1コネして終わりといったものが多い。
そのくせ導入はいちいち書くので中身の薄さがスゴい。
絶対ではないが、原則としては会話劇になる事。
そのせいで描写は少なくなり、ニュアンスは話言葉の中で作り出すしかない。
一方で、話言葉の中に与えられる個人性というのは、言語(辞書的な意味での言葉)の外に多大な影響を受けるが、形式としてそれを切り捨てているので、言葉はさらに深さや豊かさといった部分を失っていく。
おじさんにしてみれば何のために読むのか、読むことがによる便益が全く見えないという事態に遭遇することになる。
では何が強みなのかといえば、やはりスーパーテンポである事で、その速度感は圧倒的である。こんなに斜め読みに適した媒体はちょっとない。
だが、文章に与えられた意味があまりに薄いので(ついでに言えば文字の詰め数も少ない。画面に対する文字数の少なさ)、そのスピードにかかわらず、時間やスペースに対する意味の総量はむしろ少ない。
が、何かを読んだ!という感触は、視線が動く量(ネット世代としてはページ送りの回数や、フリックして流した画面の量であったりもする)とも関係するので、その何かを読んだ!という事自体に付属する快感がキモの1つなのだろう。
自分で書くつもりはないが、あの形式で、ある程度の強度を持ったものを書こうと考えるならば、会話や、あるいは物語からさえ離れて、詩の方面に寄った方がいいのではなかろうかという気がする。
あるいはラインというコミュニケーティブなフォーマットであることは忘れて、「左右から、文字や画像が、時制を持ってポップする。」それ自体から可能性を探った方が面白いものが書ける気がする。
その際、おそらくスーパーテンポは捨てることになるが、半映像的というか、半時間芸術的というか、そういった属性はむしろ強調されるだろう。
あるいは読み手が画面をタップする事もギミックとして使えるかもしれない。
というところがライン文学(チャット小説)も個人的感想なのだが、ここからthe missing におけるラインの使用に話を移したいのだが、長くなりすぎた気がする。
一回切ります。
次は画像文化としてのラインとその軽さとthe missingである所の、その2に続く!