The missing −JJマクフィールドと追憶島とラインによるストーリーテリング その2

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pandoraosiri.hatenablog.com

 

続き

前回はライン文学(チャット小説)はスーパーテンポの功罪で好みじゃないという話だった。好きな人はもちろんいるだろうが、描写に薄い、あまりに軽いその形式は、読むという行為自体の喜びに頼りすぎている。

 

さて、ラインといえば既読通知。既読通知といえばめんどくさい。

なのだが、形式としては、まず情報伝達のためのものなのだから、読む読まないという根源的な場所をフォーカスするのはもっともではある。

そして速度が重視されるチャット形式がそれを後押しする。

内容の深みよりも、情報の交換自体がフィーチャーされる。

フォーマットが共通しているライン文学が、描写や深みよりも、読む喜びそれ自体により親和性があるというのは、(このロジックが通ってるかは実はちょっと怪しいんだけど)まあ、ある話だ。

 

私はこれをラインによる文章ストーリーテリングの限界とでも書いちゃいたいところだ。

 

そしてラインといえばスタンプ。

スタンプについてなのだが、これは私見だが(そんなこと言ったら頭から全面的に私見なのだが)、メインでは2つの使い方をがされていて、

1つは、色のついた記号のような使い方。

基本的には文章にニュアンスがついたようなもの。文章では長くなってしまったり、表現が難しい(あるいはめんどくさい)場合にスタンプに丸投げする場合。

2つめは、絵の楽しさ。そのまま。所持している可愛い絵や、楽しい面白い画像を見て欲しくて貼る。

もちろん両方は重ね合わさったり、下手な人は毀損しあったりする。

一つ言えるのは、見た目ほど感性的な表現ではないということ。(気に入った画像を貼ることは感性的な表現ではないのか?これはこれでまた長い文章が必要だし、あまりに散漫になるから触れない。ここでは違うものとする)

画像という感性的な媒体をもって伝達されるため、一見すると表現自体が感性的なものと誤認するが、そうではなく、表現される方法としてはおおよそ記号的になされるのだ。

ただ、使用者の好みの表現にはなりうる。それは本質的には言葉の選択(いわゆる言葉のチョイス)と変わらないともいえる。だが、それをスタンプは速度を保ったまま行うことができる。すごい。

何をどういう風語るのか、というのは発話者の情報としては非常に大事、かつナイーブなポイントなのだが、それはラインの文章の取り扱いでは(速度が速すぎるので)扱いづらい。それをスタンプが多いに補っている。

これは、ラインのユーザーレベルではあまり感性的ではないのだが、一つ上のメタ、ラインを使った創作ではスタンプというのは非常に機能性を持った感性的な道具になりうる、ということ。

 

やっと本編。

The missing のライン表現について。

 

ネタバレ注意。

 

ゲーム内においてライン表現は、サブ的にストーリーを補佐しているように見えるが、実際にはストーリーと呼べるものはラインの方に寄っている。

メインの画面上では、JJがキャンプ場で目が覚めて、大事な(とても大事な)友人がいないことに気づく。探しながら、意味深な背景の中でグロテスクなアスレチックをこなす。痛みと恐怖を伴うアスレチックが行われるその合間に、JJという人物を囲む環境が、ラインによって少しづつ開示される。

JJに何が起こったのか。

ここで何をしているのか。

そして開示し終わると(JJが記憶を取り戻すと)ストーリーテリングはプレーヤーの前のJJに帰ってくる。

ラインは2種類。

1つは過去に行われたやりとり。

2つめは、FKという名のJJが所有するぬいぐるみとのやりとり。こちらはゲーム内時間と同時である。

 

さあ、今まで書いてきたライン表現の考察とのすり合わせをしよう。

 

まず、ラインの持つスーパーテンポについてだが、これは意識的には使用されていないと思われる。基本的にはやりとりを書いているので、ここで大きなストーリーを動かそうとはしていない。

上にも書いたが、やりとりを通してJJの状況を見せようとしているので、何かが行われた描写というのはできない。我々はやりとりの中から、既に起こった物事を読み取ることになる。

そこにはストーリーは存在しているし、それをプレーヤーは認識できるのだが、それを「Aは~をした」といったような行為や、出来事そのものの描写で見ることはない。

既に起こって登場人物に認識されたものが、時制を組み替えて提示される。そこではスーパーテンポというのは別段要求されていない資質なのかもしれない。

アクションゲームの途中に挟まるテキストだから、ある程度のテンポは必要だろうが、そこまで意識して調整した感じはしない。FKとのライン時には、返信のタイミングを遅らせて、逡巡を表現したりといった素朴なものはあったが、そのくらいではないか?

調整してるのはテンポよりは、分量だろう。

 

次にスタンプの話になるが、やはりここがキモになるだろう。

ラインを表現に使うというのは、どうしても「やりとり」を書くことになる。

だが、ストーリーを描きたい場合に、起こった物事を書く必要と、キャラクターの個性を同時に描く必要があるが、「やりとり」に偏重しがちなラインの文章面ではいかにも苦しい。

なまじ速度を持っているため、キャラクターの個性の為の描写が、酷くかったるい、イモ臭いものに感じられてしまう。もちろんプロであり技術者ならばそれをクリアしてこそなのだ、というのも一理あるが、やはり、わざわざ不向きなフォーマットでやる意味はないとも言えるだろう。

そこをクリアさせるのがスタンプになっている。

The missing ではキャラクターごとにスタンプを与えて、一種アバターのように扱っている。

そういった意味では本来のラインとは違う。購入したお気に入りのスタンプを貼っているわけではないのだ(とはいえSWERY氏が「コレは彼らが買ったスタンプなんです。勝手なこと言わないで下さい」といえば否定する材料もないのだが。だが、表層的にはそう見える)が、そもそもこれはラインそのものではないとも考えられる。なにせ精神世界なのだし。

とにかく、ラインでは無味乾燥になりがちな、文章というものをスタンプで上手く補っている。

 

そして、だが、「やりとり」であるラインというものを一番上手く使っているのは、あのミスリードの部分だろう。

美しく華奢な女性と思っていた(思ってしまっていた)JJが、自分のセクシャリティに悩む男性(少なくとも戸籍上は)であることが判明する場面。

スリードというのはよくある手法であるし、ましてや、セクシャリティにまつわるミスリードというのは様々な作品、様々なジャンルでわりに頻繁に見かける類いのものなのだが、にも関わらず、鮮やかに決まった(と私は思う)のは、ラインというものの形式によるところが大きいのではないかと思うのだ。

我々は対面によるコミュニケーションをとる時、そこでは環境というものの影響を抜きに考えることができない。他者の目を気にせずにコミュニケートすることなど、無人島で2人きりでもなければ不可能だ。第三者の目は自然な動きを絡めとり、我々は全くの自由に、相手とコミュニケートすることができない。

だがラインという切り取られたコミュニケーション空間が、それを可能にする。第三者の介在しない空間において、相手に対する信頼があれば(第三者への情報の流出への心配がなければ)、人格は相手に合わせた形で剥き出しになる。JJの人格は(おそらく)女性で、人格さえ女性であれば、その空間では女性なのだ。プレーヤーがやりとりを覗き込んでもそこには女性がいる。それはごく自然なことなのだ。

また、ラインの持つ簡素さが、情報の少なさがミスリードを自然なものにする。

スリードにはある種のフェアネスが必要だが、ラインの情報の少なさという側面が、無理をせずフェアネスを担保している。

 

ここからは考察というよりは感想になるのだが、全体的にテーマの重さに比べて、表現が軽すぎるように思う。その原因の1つはラインであると思う。やはりあれは深刻な物事を表現するのに向いていないのだと思う。

クライマックスの手前のFKとのラインのやりとりは、本来(位置的に考えれば)とても感動的なものであるはずなのだが、私にはとてもそうは思われない。

スタンプを多用してきたツケなのか、そこにある言葉も、画像も、なんだか安っぽく見えるのだ。そこが軽く見えるために、その後の変化、無敵状態になるのも、本来ならとても意思というものを感じさせる描写になるはずが、軽く見える。

逆にあまりに直情的な、あまりに光に向かった表現な為に、ラインの軽さも相まって、鼻じらんでしまう(ダジャレ好きは、lightの名詞、形容詞を引っ掛けたりするんだろうな。こういうの)。

 

長くなったが現場は以上です。