ヒップホップを馬鹿にしてたのは間違いだったという昔話
私がまだ学生だった頃、日本でヒップホップは当たり前の音楽ではなく、まだマイナーな音楽と認識されていた。
その頃はまだヒップホップとラップは同一視されており、とにかく「ラップしてればヒップホップ」みたいなイメージだった(少なくとも私は)。
もちろん、ヒップホップにとってラップは花形ともいえる要素かもしれないが、実際にはヒップホップという言葉は文化的なニュアンスが大きい。でも、当時はそんなことも知らなかった。
また聴き慣れない風変わりな響きは、珍奇な流行り物ように聞こえた。
当時、ロックの名盤50選みたいなヤツをとりあえず聞いたりしていた私は、ヒップホップ(ラップ)をちょっと馬鹿にしていた。
「レディへの実在感よ。それに比べてラップなんてものは……(しかめ面しながら)」てなもんである。
なんで、掘り下げてみようとも思わなかった。
正直なところ今だって正直全然聞いてないのだけど、馬鹿にするような考えがなくなったのは、大学時代につるんでいた友人の影響だった。
彼はいわゆる音楽が趣味という人で、昔お茶の水にあったジャニスというマニアックなレンタルショップにわざわざ電車に乗っていくようなタイプだった。
学生というのはだいたいお金がないから、あの当時いろんな音楽をいっぱい聞こうと思うとレンタルするしかなかったのだ。
サブスクで聴き放題の今の子たちはびっくりするかもだが、本当にそうだったのだ(しかし、レンタルもない時代はもっと大変だったはずで、ちょっと想像を絶するな。金銭的に)。
でも、その音楽好きの友人がヒップホップの手ほどきをしてくれたという話ではない。
当時その友人もヒップホップを私と同じ程度には馬鹿にしていた。
アイドルソングの間奏にそれっぽいラップをねじ込む芸は、彼の十八番だった(毎回マーク・パンサーみたいな終わり方をする)。
では何の影響なのかというと、少し時間が飛んで何年か経ったあとの話になる。
彼は卒業後、何年かぶらぶらした後自衛隊に入り(いわゆる文化系だったのでとても意外だった)、たまにメールするくらいの交流になっていた。
だったのだが、機会があり久しぶりに会って、お酒を飲むことになった。
で、音楽の話になった。
「最近何を聞いてるの?」と。
すると彼は少し恥ずかしそうに「ヒップホップとか聞くようになった」と言ったのだ。
その時に何人かのミュージシャンの名前を聞いたのだが、当然ながら全然知らなかった(後からオールドスクールの有名どころだったとわかった)。
それから私も聞くようになったのだ、という話でもなくて、その後で聞いた自衛隊の話とヒップホップが私の中で1つになってるという話なのだ。
自衛隊での仕事はあまり詳しくは話せない(あるいは話したくない?)らしく、ざっくりしたことばかりだったが、それでも分かったのは、それがとてもとても肉体的な労働であるということだった。
キツい肉体的労働とヒップホップは対になって私の頭に刷り込まれてしまったのだ。
必要とされる音楽は環境によって変わるのだ。
と、その時思った。
その時見えているもの、受け入れている物語、将来の展望、そんななんやかや。言ってしまえば、世界をどのようなものとして感じているのか、見ているのか。それと音楽というのは共犯的に関係を結ぶのだ。と思った。
一方で楽理的構築やその発展といった世界もある。
だけども、そういったものもありつつ、少なくともポップミュージックにおいては、本質的には物語の享受という側面が大きいのだなあ、と思うのだ。思ったのだ。
いくらかマッチョになった(おそらく思想的にも)彼の背中を見送りながら、そんなことを思ったのだ。
至高の飲み物……デブ水!
ずいぶん前のことなんだけど、サマソニの帰りに(疲れてヨレヨレで)駅のコインロッカーに荷物を取り行ったら、コインロッカーを背にしてカルピスウォーターを飲んでるオタク風の男性がいたのだ。
けっこう太った人で、ぴちぴち気味の黒Tシャツにはアニメキャラ(メタルTかもしれん)がプリントしてあり、ケミカル気味の色の薄いジーンズ。
オシャレかな?オタクかな?…………うーん。……オタクだと思いまーす!シルエットはオタクだと言ってます!という感じだった。
それはいいんだけど、何が言いたいかって、カルピスウォーターを飲む姿が何しろ美味しそうだったのだ。
左手を腰に当てて、いくぶん身をそらせて、ぐびぐびカルピスウォーターやってるわけ。
こちとら絞った雑巾のみたいな疲れた体をしてるせいもあって、それがもう美味しそうで美味しそうで。
もちろんロッカーから荷物を引きずり出した後は、すぐさま自販機にカルピスウォーターを探しにいったのであった。
歩き回ってやっとみつけたその時のカルピスウォーターよ。その甘露よ。
それ以来、私はカルピスウォーターを密かに「デブ水」と呼んでいるのだが、そのポジティブなニュアンスは他の人に伝わる訳がないので、わざわざ知らない人には言ったりはしない。
カレーコロッケは死なず
大人になると食べ物の好みが変わるというのはよく聞く話で、私も老化という花園の収容所に入所したためか、たまに遭遇する。
大きな出来事が起こり、ある日を境に人生観がすっかり変わってしまうみたいな話じゃないけれど、川底の砂が削れるみたいに自分でも気付かないうちに、こっそり、日々ちいさな変化は起こっているから、ある日すっかり変わってしまっている(変わり果てている)自分に遭遇して唖然としてしまうことになる。
食事というのは毎日するものだし、そのうえ、外食や好奇心で普段とは違うものを食べる機会も定期的に来るので、どうもその「唖然」に遭遇しやすいみたいだ。
やれピーマンが食べれるようになった、どころか大好物になって、肉詰めから剥がして準ハンバーグとして食べていた過去の自分を殴りたいなんて話は本当によく聞く。
こないだ私が気づいたそれはカレーコロッケ。
スーパーで買い物していたら、冷食コーナーにレンジするだけで食べられるコロッケがあって、安かった。買おうと思ったら2種類ある。普通のコロッケと、カレーコロッケ。カレーコロッケの方が20円安い。
知ってますか?カレーコロッケ。
はんぶんに割るとジャガイモがターメリックの色。カレー粉で風味づけされてて、普通のコロッケよりどっしりとした食べ応えがある。が、何というか子供騙しっぽい感じもする。野菜嫌いの子供にお母さんが思いついたアイデアというか。おかげで普通のコロッケに比べてむしろ安っぽい味がする。
私以外の人もそう思うのか、カレー粉の分手間がかかっていると思われるにもかかわらず、カレーコロッケの方が安くなっていて、余っていた。
私だって普通のコロッケの方が好きだと思っていたが、安いし、何より小学生の頃の給食いらいじゃないかななんて思ったら、なんだか急に食べたい気分になってしまった。郷愁?
ラップなしでレンジする。
案外衣はカリッとしてる。ふにゃけたスーパーのコロッケよりはよほどコロッケらしい。口に運ぶと本格的ではないカレーの懐かしい香りがする。ちょっとインド人に似てる顔立ちの日本人みたいな。
でも普通のコロッケよりジャガイモの甘みを感じるのはカレーの香りせいか。それがどっしりとした食べ応えを生む。
普通のコロッケをおかずにご飯はいけるし、カレーライスは言わずもがな。だが不思議なことに、カレーコロッケはそんなにご飯と仲良くないとおもう。理由はよくわからないが。
缶チューハイを片手に、小さく切り取ったやつを少しずつ食べるのがいい。
ちょっと食べては一口飲んで、ちょっと食べては一口飲む。
気づいたときにはその安っぽさも、味わいとして認めてもいい気がしている。どころか好きだなとさえ思う。
ひと月後なら、また食べたいなと思う。
だが、同じコロッケ枠でもグリーンピースとコーンの入ったやつは、未だ受け入れることはできない。いわゆる「ただし、テメーはダメだ」である。
ウォーキングシュミレータによるストーリーテリング考察 その1
ウォーキングシュミレータ雑感。
ファイアウォッチ、ゴーンホーム、フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと、と3つほどこのジャンルのゲームをやったので、何かしらの感想を書いても良かろうと自分に許可を出したので書いてみます。
出来るだけ分かったような面をしないように気をつけながら。
随分と前からゲームというのは、映画への憧れが推進力の1つとなっている部分があったと思う。
ビジュアルの表現力と媒体の容量が大きくなっていくにつれて、操作の出来ないカットシーン(昔はムービーと呼ばれていたと思う。そのまんまじゃないか)が増え、まるでゲームの上位に存在するかのように、一種プレイに対するご褒美として配置されていた。
シネマティックなになにみたいな宣伝文句も普通に受け入れられてきた。
現役の最も評価されているクリエイターにも映画に対する憧れと情念をむき出しにしている人がいる。
映画も、昔は2級の芸術として(まだサブカルって言葉は生きているのかな?)扱われていたと聞くし、そういった意味ではゲームというのもこれから「所詮ゲーム、所詮遊び」というところから脱していきたいジャンルでもあるのだから、見事表現と娯楽の狭間で一定の地位を手に入れた、映画という年の近い先輩に憧れるのは必然だったともいえるかもしれない。
だが私は昔から映画的なゲームと呼ばれるものがあまり好きではなかった。
そもそも映画とゲームって作りがだいぶ違う。
まず、単純に映画は観賞するもので、ゲームはプレイするものだ。前者はその表現を楽しむもので、後者は行為の中に喜びを見つけるものだ。
それに映画は時間芸術だが、ゲームはそうじゃない。始めの15分に伏線を敷いていても、客の前にその着地が現れるのは毎回60分後とは限らない。人によっては次の日だし、場合によっては1ヶ月後だ。プレイの仕方によっては、そもそも認知さえ(あるいは登場さえ)しない。それらを配置することの意味合いが変わってくる。程度の問題はあるにしても時間的な繊細な配置というのは意味をなさなくなる。
穿った見方をすれば時間芸術という意味では、いわゆる「映画的」なゲームよりも、プラットフォーマーやシューティングゲーム(縦シューとか横シューのことね)の方が近いとさえ思う。
何言ってんだ。分かったようなこと言いやがって。
そもそも映画的ゲームってなんだよ。具体的に名前と構成要素をあげやがれ。この豚野郎!
と思うのも当然だし、ここで私の定義を書いておこうと思う。
あくまで私の定義だが。
まずストーリードリブンであり、また、その提示がカットシーンがメインであること。
そしてそのカットシーンを繋ぐものとしてゲームプレイが存在していること。
定義というほどではないものの、多くの場合その「大迫力!」な映像が売りとなっている。
以上。
大雑把に過ぎる?その通りだと思う。
しかも、私は、これが映画的なゲームで、それは違うなどと明確に分けることができない。何故かというと、それはゲームを構成するある要素の濃さの問題であるからだ。映画的と思わないゲームでも同じ構造のものはいくらでもあるのだ。
だから私はグラデーションの中で「より映画的なゲームである」と「感じる」としか言いようがないのだ。
私が「映画的なゲーム」と言う時、「本当は映画になりたかったゲーム」というニュアンスが存在している。だから申し訳ないが、いくらか侮蔑的な意味合いが入り込むように思う。意識的に侮蔑として使っているわけでもないのだが。
それでも我慢できるならもう少しお付き合い願いたい。
さて本題。
ウォーキングシュミレータ雑感なのだ。本題は。
先に言ってしまえば、このウォーキングシュミレータというジャンルは、小説に親和性のあるジャンルではなかろうかと思うのだ。
さらに言ってしまえば、そもそもゲームが目指すべき物語の構造、あるいは語ることのできる物語の種類は、映画よりはむしろ小説に近いのだと。そう思うのだ。
上に書いたように、私はもともと「映画的なゲーム」というものに否定的な人間である。にも関わらず、この「小説に親和性のあるゲーム」であるところのウォーキングシュミレータというジャンルには好意的な感触を持っている。
それらを、「小説になりたかったゲーム」だとは思わない。
つまるところ、ウォーキングシュミレータによるストーリーテリングはゲームによって行われていると考えるからだ。そして「親和性がある」から小説的な物語を引き込むことができるような可能性を感じるのだ。
ここでいいたい小説的な物語とは(学的な話じゃないよ。このブログのこのエントリーの中でいう小説的な物語)何か?どういった特徴があるのか?
それを説明すると、視点の話になる。視点の位置の話がしたいのだ。
ざっくりいうと、ウォーキングシュミレータと小説は一人称の物語であり、映画は三人称の物語だ。という話に帰着する。
ああ、反論が聞こえる。
でも我慢して、いったん持論を聞いてほしい。
まず、一番本筋から遠い映画の話をしよう。
映画は三人称?そんなことないぞ。主観カメラによる映画だっていっぱいあるぞ。ドキュメンタリ映画、モキュメンタリ映画筆頭にいっぱいあるじゃないか。そう思ったのはないですか?
それはそうだ。
でもそれらのほとんどは映画が三人称であることを前提にした、リアリティを膨らませるギミックなのだ。手ブレさせるカメラワークもその一種だ。
通常意識することの少ない観察者(監督やカメラマン、客席、あるいは登場人物)の視点を想起させることで、狙った感触を生み出そうするテクニックなのだ。
でもそれは、外部に存在する物語をフィルムに定着させる行為であって通常の映画と変わらない。いうなれば三人称の物語なのだ。
その意味では「カメラ」が登場人物の眼の位置にあろうが、神の眼の位置にあろうが問題ではない。
あなたが素晴らしく妥協的で優しい人であれば、この前提は受け入れてくれるだろう。
では次だ。
小説は一人称しかない。
これはもうちょっと反論が増えそうだ。
でも事実そうなのだ。もちろん、ある見方においては、という限定の下の話ではあるのだが。
いささか込み入った話になる。
2つの側面がある。
まず1つめ。
書き手の側面。
物語うんぬんの前に文章というものを考えて欲しい。
あなたに書きたいナニガシがある時、全てを文章にすることができるだろうか?感情でも、人物でも、出来事でもいい。あなたが書きたいある感情があったとして、それを、「悲しみ」なり「怒り」なり「喜び」なりといった言葉で完全に表せたと思えるだろうか?
そんなことはありえない。言葉の隙間から溢れるものがあるはずだ。
三人称はいわば神の視点なのだが、文章というものは本質的に神の視点にはなりえない。
書き手の言葉の網に残った意味に、文体や意味の流れといった技術を使って、表面的な(しかし本質的な)選別を行うのだ。これはどうあっても外部的な装置ではありえない。
しかし急にポエミーになったな。
そして2つめ。
読み手の話。
上記の展開の逆が起こる。本やモニターなどに書きつけられた文字は自分の外にある。けれども、読むという行為は、その文字列を一度読み手の中で組み立てる必要がある。あなたはあなたの中にある辞書を引き引き、そこにある文章を翻訳していくことになる。そこでは「悲しみ」はあなたの「悲しみ」であり、「喜び」はあなたの「喜び」なのだ。
そして、私の「悲しみ」とあなたの「悲しみ」は同じものではありえない。それは私の中にある辞書とあなたの中にある辞書は別物だからだ。
誰もが誰かと会話のすれ違いを経験したことがあるだろう。それは相手の、またはあなたの頭の回転が遅い(場合もあるが)せいではなく、一つの単語、センテンス、文脈、そこから想起される言葉の意味が人によって違うからだ。それは正しいとか間違ってるとは別の次元の話だ。
ふう。長くなった。
私が小説は一人称しかないというのは、そういう意味だ。
ただのこじつけだと思う?
そうかも。一人称という言葉が適当でない可能性はある。でも、呼び方はさておき私がこの一連の文章でいいたいのはこのことなのだ。視点の位置の問題なのだ。
さてさて、本題。
ウォーキングシュミレータの話だ(前置き長すぎ!)。
ここからは通常の意味での一人称の話になる。つまりFPS的な、ファーストパーソンな視覚の話になる。身勝手ですまない。
と、いうのも、今までの話は映画と小説の語りの「違い」の話で、ここからは主観視点によるゲームプレイとストーリーテリングの親和性の話になるからだ。
そして最終的には小説とウォーキングシュミレータの親和性に繋がるのだ。
だから、ここからはウォーキングシュミレータの視点とストーリーテリングの話になる。一般的な意味においての。
そものそも、ウォーキングシュミレータと一人称の親和性は当然なのだろうか?ほら、ウォーキングシュミレータってだいたい一人称だ。
でも当然だとまで言い切ることはできないのではなかろうか。
その世界の中を歩き、見て回るゲームと主観視点は相性が良い。それは単純な事実だが、今現行のウォーキングシュミレータのほとんどが主観視点を選んでいるのは、その出自が理由である気がする。そのせいで主観視点でなければウォーキングシュミレータと呼ばれないのではなかろうか。
一番最初にあげた3つのゲームのうち、ゲームプレイを通じて主観視点であることの必然性を感じたのはファイアウォッチだけだった(勘違いして欲しくないのだが、ゲームの良し悪しの話ではない。ファイアウォッチが一番好きなのは事実だけども)。
ゴーンホームは家の中のオブジェクトを読むことで物語られる。筋となる部分は回想のようなの手紙の朗読。
環境的な描写部分(雨の夜。散らかった部屋、学校ノートの切り端の手書き文字。バスルームの髪染めなど)は存在するが、基本的には言語によって行われる。
言語的に行われるストーリーテリングとは何か?ゲームプレイと呼べるのか?
いや、ゲームプレイとは呼べる。
呼べるんだが、主観視点で歩き回ることとの親和性は別ではないか?
その文章たちを読むのにプレイヤーは家の中を歩き回る必要がある。
狙い所として考えられるのは、テキストが散らばっている(空間に配置されている)ことで階層を生むことだ(回想の階層。へへへ)。
誰もいない屋敷を探索する事と、妹の回想を始めとしたオブジェクトの情報を交互に与えることで、「見る私」をハブとして複数の情報が距離を持って与えられる。その振幅の中で、メインの妹の物語は複数の角度を持って深さを与えられる。とか?理屈としては。
でも、その効果はあまり機能してないと思うんやな。少なくともウォーキングシュミレータのストーリーテリングとしては。
何故か?
私の考え。
1つには、テキストによるストーリーテリングである事によって、それが外部化されてしまう為。本来なら内面化(小説のように)するはずのテキストは、ゲームプレイが挟まる事で、誰かに語られた言葉になってしまう。この辺の機序は言語化しづらいが、本来ゲームプレイは、出来事と出会うはずなのに、代わりにテキストに出会ってしまうと、プレイヤーは一度テキストの主体に寄り添ってしまう。その宙吊りが主観のプレイングにフィットしないのだ。主観視点のプレイングの肝はその視線と同化することにあることに異論がある人は殆どいないと思う。
2つ目には主体の不在。
物語の観察者は長期の旅行から帰った長女である。主観視点のストーリーテリングという側面を考えれば、プレイヤーはその長女とシンクロする必要があるが、長女については、ゲーム中ほとんど何も語られないに等しいのだ。
それどころか、ゲームの導入や途中に、物語に引き込む導線としてホラーテイストを作っており、(それに関しては一定の効果はあるように思うが)、そのために長女を不可視化させるように仕向けるのだ。プレイヤーはスタート時、自分を家の者だとは考えつつも、途中まで半信半疑なまま家捜しすることになる。
長期の旅行から引っ越し先に帰るというひねった設定は、情報のないプレイヤーと、家族でありながら情報のない長女を重ねるのに上手くできていると思う。だが、何者であるかまで情報がないと、プレイヤーは観察者に同調することが難しくなる。何故なら謎の人物はそれ自体マクガフィン化してしまい、観察される対象となってしまうからだ。長女の物語を展開していくならそれでも可能だが、メインストーリーは妹にある。ちぐはぐだ。
一人称の物語を「私が見る物語」と言い換えれば、そのズレは明白ではないだろうか?
シンプルにいうなら、このゲームはそもそも妹の話に共感求めている。その上で、「長女(私)を通して読む」ことも要求しない。であるならば主観視点も要求されない。
続きまして、フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと。
フィンチ家の特徴は、1つ1つの物語をプレイする対象として読み直そうとすることだと思う。意味をなさないようなしょうもないのもあるが、基本的には、それぞれの人物の死の核となるイメージを、プレイアブルなものとして置き換える。
私は物語=プレイという構造を高く評価する者である。
特にサーモン缶の工場勤めの兄のパートは素晴らしく、褒めちぎりたい気持ちでいっぱいだ。頭がおかしくなりそうなくらい単純な作業に体を取られながら、分裂的に妄想の中に入り込んでいくあの感じ。よくもまあ、あんなにありありと作り出したものだ。
物語=プレイというのは(もう言ってしまうが)、私が考えるゲームに求められる、あるいは最も適していると考えるストーリーテリングなのだ。
ただ、そのいくつかの素晴らしいプレイングを持ってしても、主観視点である事の必然性は感じられない。
1つには、そこで提示されているのが物語ではなくイメージだからだ。物語の集合ではなく、イメージの集合だからだ。おそらくそのせいで結果的にギミック的な何かに着地してしまった。またそのイメージがバラバラで、全体として何か(それはフィンチ家とエディスを繋ぐ鎖でなければ、そういった物語でなければならないはずだ)を提示しているようにも思えなかった。そのためにエディスは関係のない寄り道ばかりしているように見えてしまう。
加えて、エディスの分裂がある。
エディス・フィンチは物語る者だ。
彼女はプレイヤーの前に立っている。プレイヤーと同じ位置にはいないのだ。
にもかかわらず、ゲームの構造を考えれば、エディスは語られる者なのだ。プロットとしては物語りながら、ゲーム体験としては明らかに物語られている。もちろんそういう重層的な構造が弱みだというわけではない。「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」ではストーリー上の必然がある。
ただ、それが私の考えるウォーキングシュミレータによるストーリーテリングの、最も貴重かつ美しい、とても微妙な心持ちを作るのに雑味をもたらすように思えるのだ。
その最も貴重で美しい微妙な心持ちとは何か?
唄う事を許してもらえるなら「世界を体験したかのように感じること」という感じ。
それは小説的な物語との親和性と関係がある。詩との邂逅とか、そういう格好つけたように聞こえる何か。ロマンティックな文学少年少女の憧れ。
それはファイアウォッチの話でもうちょっと踏み込めると思うが疲れた。一度ここでキリマル。
続きはいつになるか分からないが、多分今までの分を読んで想像した通り(その浅さや青臭さを含めて)だとおもうので、安心してほしい。
続く。
おっさん少女とほとんど休出
せっかくの日曜日に、つまりは休日に、やーんなっちゃうんだけど社内の人に会う必要があったの。私はそれを休出と変わらないと考えるのだけど皆様はどう?
とはいえ、私服でちょちょっと会うだけだし、仕方ない。午後はそのままどこかに出かけようと思って、賑わう駅前のドトールで待ち合わせたの。
空が真っ青で良く晴れてた。
別部門の人だから、顔は見知ってるけど親交はない。
ぱっと見の印象は真面目で堅そう。痩せ気味の面長で、薄いフレームのメガネかけてて。いくらか神経質そうな。
細めチノパンにやや大きめのネルシャツ。袖を少しまくってた。普通のおじさんの格好。でもシルエットは40過ぎにしてはちょっと若い感じがした。
休みの日だったからちょっと気が抜けてたのね。流れで個人的な話になったの。ああ見えて話好きなんだと思う。
あるいは休日の魔力かしらん?
よくある話。
どこ係のなになにさんが学校の先輩で「へぇそうなんですか」ああ見えて昔はどうたらで「あ、あーそうなんですか」僕は嫌だったんですけど無理矢理ね「あー、そうですか…」でもそのあとあの人「よかった安心しました」みたいな。
ちょっと眩しそうな感じで楽しそうに大学時代の話をしてた。きっと彼にとっては思い出すとついテンション上がっちゃうような時代なのね。
まったくね。色んな人がいる。
私にとっての大学時代は全然そうじゃなかったから、できるだけ聞き役にまわった。その人気持ちよさそうにおしゃべりしてたんだもの。水を差すような話をしたくなかった。かといってせっかくの晴れた休日にたかがおしゃべりに嘘をつくのもなんだか嫌だったし。
全くの話、大学時代は全然楽しくなかったの。あの頃のことを思い出すと、なーんかジトッとした雨の中を歩いてるみたいな気分になる。服も靴も濡れちゃってさ。グシュグシュいわせながら歩いてるの。3歩ごとに立ち止まって「ハァー」ってため息をつくような、ね。
そりゃ思い出そうとすれば楽しげなエピソードの一つや二つ、あることはあるよ。でも全体としてはダメね。
あの頃の友達には悪いんだけど、全体としては楽しかったとはとても言えない。
もちろん友達のせいじゃなくて、私のせいだけど。
だからだと思うんだけど、その人の大学エピソードを聞いてたら羨ましいというよりは気持ち悪いと感じたの。
昔のエピソードというよりは昨日のエピソードを話してるみたいな、大学で起きた事をその日のバイトで同僚に話すようなニュアンスがあったのよね。何というか、未だに先輩後輩の関係性がそこにあるというのがありありとしてた。言葉のはしばしでそういうソーシャリティがあるのが見えてた。隠しもしてなかったんだけども。
正直、ちょっと異常な、怖い感じがした。
でも学閥って言葉があるくらいだし一般的なことなのかしら?
理解にくるしむ。
これが友人だってのなら私にもわかる。大学の頃からの友達なんですよ。長い(どちらかといえば素敵な)付き合いですね。そう思うだけ。
でも、私の思い違いじゃなければ、「先輩にいじられて、構ってもらえて嬉し苛立ち」みたいなニュアンスがあったのよね。根っからの後輩根性みたいなものが。
私はどうもこの後輩根性がなかった。
というか公的なソーシャルな輪っかみたいなものが苦手だったのね。友人ともいいがたい人たちと、輪っかの中にいるからとりあえず付き合いをしていくのがダメだった。なんかバカみたいじゃない。人気ものに見られたい小動物じゃないんだから。チワワか。
とはいえ、この性向は社会人になった時に決定的に悪いものとして現れることになったのである。……うふー。
だってチワワ可愛いじゃない。人気出るじゃない。それに比べたら私なんてせいぜい荒れ屋につながれたギャンギャンうるさい汚い雑種よ。もうたちうちできない。
年をとってきてなんとか最小限の付き合いはできるようになった気がするけど、それまではひどかった。
なんの話だったかしらん?
えー、だから必ずしも良い悪いって話じゃないんだけど、それでもいい年して大学時代の関係がそのまま続くのは異常だと思うの。だってあれは仮の社会なわけじゃない?
ソーシャルな振る舞いを学ぶ場だというのは一理ある。でも、いい年まで続いているなら、先輩後輩からただの友人にシフトしてなきゃおかしいと思うわけ。
だからその会社の人の話を聞いていたら、怖くなっちゃた。
ゼミで隣り合っただけの学生がなんとか話のつながりを探そうとしてきた時みたいな辛さが沸き起こってきたの。
そういうのには慣れたと思っていたのに。せっかくの晴れた休日なのに。
その日の用事を匂わせ、適当に話を打ち切った。
喫茶店を出たら空気が澄んでて気持ちが良かった。まだ休日は終わっちゃいない!そんな事を思いながら雑踏に踏み込むおっさん少女なのであった。おわり。
久しぶりに無罪モラトリアムを聴いて
(以下の文章は少し前に書き出したものの、進まず、そんな折、椎名林檎さんがMステで「正しい街」を演奏したという話を聞き、これ以上遅れたら便乗に見えてしまう。えーい、もういいや出してしまえ。という文章である。ちなみに例の演奏は見てない)
大学時代、講義と講義の合間は一人きりで音楽を聞いていることが多かった。友人が少なかったから。
当時はiPhoneなどなく、出先で音楽を聞くとなればCD やMD(!)のポータブルプレイヤだった。
都合、カバンに入ってる物をリピートすることになり、ものぐさでカバンの整理もろくにしないからリピートはさらに回数を増し、光ディスクとはいえ擦り切れるんじゃないかという気配だった。
その擦り切れ筆頭が無罪モラトリアムだった。
久しぶりに聴いた時、真っ先に思い出したのは、大学のテラスのベンチや、何号館から出てすぐの段差に腰をかけてた時の硬いケツの感触だった。そこで時間を潰していたのだ。
真っ先に思い出すのがケツの感触というのもなんだか不思議なものだ。
何を懐メロと呼ぶかは人によって違うのだろうが、私にとっては、ある種の風景や感触を思い出させるのが懐メロの定義の中核で、それに従えば、無罪モラトリアムは懐メロということになる。
ベンチやコンクリートの感触を思い出して、それから、そこから見えていた並木の桜や、石畳を埋める落ち葉を思い出して、そこを歩く騒々しい大学生達を思い出して、それから数少ない友人のことを思い出して、住んでいたアパートのことを思い出して、あの時にはあった色々なものを思い出した。
ありがたいことだと思った。
ああだった、こうだったと思い出す一方で、今聴いているその音楽、無罪モラトリアムはあの頃とは違う聴こえ方もしたのだった。
ヒステリックなセンシビリティ。恋愛の絶望と渇望の間を行き来する。それが世界の中心であることの痛々しさ、でもそれを喜んでもいる。
そういう女の子の姿にそれなりのリアリティを感じていたはずだったが、久しぶりに聴くと随分少女マンガ的な世界観に感じた。どちらかというと少女マンガの恋愛に憧れている女の子像のように聞こえた。
でも、それがダメだという話ではなくて、それはそれで構わなくて、本題は別なのだ。
何というか、自分の中で分裂した感覚があったのだ。
当時に感じていた感触(それなりのリアリティ)がありありと再生される一方で、そうは聞こえない(少女マンガの世界観だ)のだ。
なんだか変な感じだ。
ケツの感触を思い出す方がまだ分かりやすい。
過去の記憶と今の視点は違う。それだけのことじゃないか。普通のことだ。そう思うかもしれないが、本人としてはそう簡単なことでもないと思う。
それはリアリティの問題だからだ。
2つ同居するリアリティのどちらが自分にとって正しいのかわからなくなる。なにせどちらもリアリティがあるからだ。
無罪モラトリアムに関していえば時間の流れが明白で、少女マンガ的と感じるのが現行のものだと判断できる。
でもそれ以外は?
過去のリアリティはどこまで過去なのか。
更新されていないリアリティ。人間は原理的に言えば過去以外のどこにもいない。だが過去に感じた(と思っている)リアリティは本物なのか?
お前が見たと思っている川や橋や河原や、雑木林やそれにまつわる笑い話や、学生飲みのむちゃくちゃで揺れる帰り道の視界の電信柱や、苛立ちをどこまで生々しいものとして感じられていたか?いたと言えるか?
などと考えていると文章もまとまらず、出し遅れてしまうのが世の常。
結論などない。そんな事を考えたという話。ちょうどよかったので切ります。終わり。
フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと、という危うい文字列
「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」
発話やタイプしてみると分かるのだが、この文字列はぱっと見ほど自然な並びではない。
普通の並びは「フィンチ家でおきた奇妙なこと」とか、「フィンチ家の奇妙な屋敷」とかそんな所だと思う。
一族の意味合いでの「家」と、「屋敷」が被っているし、「フィンチ家の、奇妙な屋敷で、おきたこと」という三分割されるのも、タイトルとしては微妙にアンバランスに思える。だが、不思議なことに、文字列を目で読んだときには悪くない。
何故か?私にはよくわからない。
ともかく、この名前はこのゲームの多くのことを体現しているように思う。
とある一族が主題で、奇妙な屋敷が主題で、そこで起こった(もちろん奇妙な)様々な死が主題で、それらをどれもタイトルから外したくなかったのだろう。
プレイヤーは、フィンチ家の生き残りのエディスの視点で、その奇妙な屋敷でおきた死に触れていく。触れていく1つ1つで、プレイアブルな何かが起こる。
このあたりは必ずしも死の追体験というのでもなく、切れ味も重さも出来も様々な「プレイアブルな奇妙な死のイメージの共有」といった感じ。
ゲームをしている最中私は、正直なところ、そのイメージの統一性のなさに困惑していた。
その奇妙な死たちは、フィンチ一族にかけられた呪いのようなもので、そこには取り去ることのできない根のようなものがあるはずだと考えていた。
またそうあることで、血筋というどうあっても逃れることのできないある種の呪いが描かれるはずだという思い込みがあった。
そのせいだろう。フィンチたちに訪れる死は、どうにも散漫なアイデア集のように感じられた。
ただ、いくつかのアイデアは本当に素晴らしいものだった。
白眉は缶詰工場で働く兄のそれで、細かく書くつもりはないが、このパートは死のイメージとプレイアブルな部分がおよそ完全にシンクロしている。ゲームという表現の理想の1つといえると思う。あそこまでシンクロすると、シンプルで、ややもすると言葉だけになりがちなゲーム上の設定に肉が与えられるように思う。
というところがプレイ後すぐの感想だったのだが、1ヶ月くらい経った今はちょっと違う気がしはじめている。
フィンチ家の出来事は、実際に起きたとは思えないものも混ざっている。そのイメージはフィンチ家で語り継がれている死のお話だったり、エディスの想像だったりと解釈できるが、それさえもはっきりとはしない。
であるならば、当然、呪いさえも本当に合ったかは随分あやしいではないか。
それは単に語られてきた呪いでしかなく、想像に彩られた一族の諦めと慰めでしかない。と考えれば、タイトルに「屋敷」を入れたくなったのも分かる気はする(原題は違うんだけどもそれでもね)。
それは作り上げた呪いのメタファーなのだ。
あの奇妙なかたちの屋敷は呪いと同じような形で生まれて、具現化したのだ。時代を経るとともに増築され、改築され、そこから逃れることはできない何かだと考えられてきた。
だが本当に逃れることのできないものであるかは別の話なのだ。
そしてエディスと母親は家から出て行く。
だが、そういうと、あなたはエディスもエディスの母も死から逃れることができなかったではないか、と反論するかもしれない。
でも、そもそも誰も(私もあなたも)死から逃れることなどできないのだ。そこに呪いの介在は必要ない。
そう思うようになったら、散漫に見える物語の集合も気にならなくなっていった。結局のところ別々の死がそこにあり、それを後から呪いのフィルター越しに解釈したのだと。
それがフィンチ家という一族だったのだと思うと、ほとんど逆説的に大きなゆるい統一性を感じることさえできた。
まるであのタイトルのようではないか。
「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」
その微妙で危うい言葉の並びをどのくらい自覚的に使用したのかはわからない。だが、離れて見れば、悪くない。全然悪くない。こんなにぴったりとした名前も他にないのではないかとさえ思える。
この辺が今最初に出てくる感想だ。以上。