悲しみの大空港2013

三谷幸喜監督 大空港2013

 

「カメラを止めるな」と「ラヂオの時間」の距離について何か書けないかと思って、三谷幸喜の方を久しぶりに見返したのだった。相変わらず面白かった。テンポ良く動き回る物語は、勢い付くともう途中で止められない。最初は確認のための視聴だったはずなのに、気づいたら最後までみていた。

初めて見たのはテレビでの放映だったはずだ。何歳くらいの時だったか?思い出せない。ただその時のCMに入った時の待ちきれない感情と、CM明けの暖かいブラウンのラジオスタジオの画面は妙に覚えている。

それから、そういえば最近の三谷幸喜作品を全然見ていないなと思い、プライムで検索して引っかかったのが「大空港2013」だった。

ふむ。正直酷かった。以下感想。

 

全編ワンカットによる映画で、舞台は空港。

空港!

場所柄、当然出演者は(エキストラ含め)かなりの数になるし、また、撮影場所はひらけた空間になり、余計なものが見えてしまう可能性が高くなってしまう。当然ガラスの写り込み等も計算する必要があり(空港のすぐ外で、ガラス張りの壁を背にした、詐欺師のオダギリジョーとお母さん神野三鈴の絡みなどは、もういくらかドヤ感を感じるくらいだ。ガラスとガラスの間の1メートル程の幅を使ってカメラをパンする所など、ついついはみ出たカメラを探してガラスに目がいってしまう。もちろんチラリとも入りこんだりはしない。)、その労力は大変なものだろうと私のような素人でもわかる。

 

演者もそれぞれ素敵だった。

主役の竹内結子は、次から次へとやってくる展開を、適切なリアクションといった表情で受け止めたり、躱したり、良いコメディエンヌだよなぁーと思う。

父親役の香川照之の安定感のある曲者ぶりはさすが。

母親役の神野三鈴もちょっとよろめいた所のある(そして描写しようとすると長くなってしまうような多面的な)性格を着地させている。

お爺さん役の綾田俊樹さんは、何せいい声で、喋りはじめるとそれだけで嬉しいようなところがあった。

母方の叔父役の生瀬勝久は、与えられた(求められた)役回りをきっちりこなしている。まあ、あんまり好きな感じじゃないですけど。

香川照之の不倫相手の戸田恵梨香は、もともと私は全然好きではなかった、というよりはむしろ嫌い(容赦なく本人に向けて悪口を言いそうな、そしてそれを自分の良いアイデンティティだと勘違いしてそうな口元を筆頭に)だったのだが、とても良い女優だなと見直した。記憶よりずっと綺麗だったし。

逆に酷かったのはコンシェルジュ青木さやかくらいのもので、彼女は芸人なのだししょうがないよねという感じ(というか、何で役者にしない?)。

 

 

この映画を見ようと思ったのは三谷幸喜作品だったからだが、穴はまさにそこだったように思う。主に脚本。

何が撮りたいのか不明である。

別に私としても、大団円か破滅しか認めないとかそういうつもりもないけれど、田野倉一家に訪れた危機的な状況(あるいは単純に炙り出された状況)にほとんど変更は起きず、羽田空港で起こっていたという天候不良と同じように、物語の展開に影響を与えながらも、終幕まで待っていれば全て何も無かったかのように扱われてしまう。

そんなわけないんだが。

炙り出された状況には、何の解決も起きていないのだから、当然それは一家に確実な変更を起こしている最中であるはずだが、1時間40分待っていれば、やがてそれっぽい雰囲気とそれっぽい音楽で、まるで嵐は去っていったように竹内結子は出発したヘリに手を振る。

いや、一家は松本空港から出ていったのだから合ってはいるのか。

 

嵐は止まずに去っていく。

じゃあ、炙り出されること自体が物語の主であり、状況の解決(あるいは物語の着地)は撮るつもりもないのだ、という事も理屈では考えられるが、それは却下したい。

何故なら、どう考えても、炙り出された状況というのはステレオタイプ、それも見ていて不快になるような価値観のステレオタイプなのだ。

普通に見れば、脚本家は登場人物達に愛を持ってはいない。それどころかそれに費やす時間さえもなかったのだろう。

何だか見慣れてしまったグランドホテル型三谷幸喜は、手癖としか言いようのないもので、テンポと時間配分にしか興味がないようだ。嵐がやってくる時間と出て行く時間を、冷めた目つきで確かめている。設定された時間に始まりの音楽と終わりの音楽が鳴ればそれで万事はオーケーなのだ。間違えないでほしい。万事解決はしていない。オーケーが出て見過ごされるだけだ。

 

それでも、登場人物達の行動や、扱われ方に苛立ちながらも、それでも何とか最後まで見たのはテンポの良さと、役者達のおかげだろう。ほんと役者でもった映画だった。幾分可哀想になるくらいに。